スーパーマーケットの「お造り」の「きれいさ」と「真善美」
今日も一日、家で静養。
家にいると最近は、
ギターに手が伸びる。
ギブソンJ100とマーチンLX1。
J100は超大型、
長さは42インチ、107センチ。
幅は17インチ、43センチ。
LX1はlittle Martinと呼ばれる小型。
34インチ、87センチ。
13インチ、32センチ。
こんなにボディの大きさが違う。
音色も音量も、
ちろん全然違っていて、
それぞれに楽しめる。
そしてマーチンもギブソンも、
きれいなギターだ。
歳をとったら、
ちいさなギターを抱えて、
小さな音を鳴らす。
それもいい。
私はと言えば、
まだ微熱が続いている。
気管支炎が完治していない。
だから家の中でゆっくりしている。
そうすると、
台風1号が発生したというニュース。
気象庁は1951年から統計を取り始めた。
そのなかで7番目の遅さだ。
日本列島の西のほうから天気が荒れてくる。
日経新聞夕刊「あすへの話題」
タイトルは「お造り」
料理研究家の土井善晴さんのエッセイ。
「『刺身』と『生魚』は違うものだと
はっきり分かったのは、
日本料理の修行を始めてからだ」
「刺身は生の魚を切っただけだと思っていた」
スーパーマーケットの刺身も、
生の魚を切っただけのアイテムではない。
土井さんが修業した料理屋で用いた鯛。
活けじめされて、
明石の魚屋がトラックで
朝一番に運んできた。
夏場でも氷が魚に直接触れないように、
配慮されていた。
「活きた鯛の鱗をかくと、
しゃりしゃりとやさしい音を立てる」
「腹を開くと香ばしいいい匂いがする」
「水洗いを済ませた魚体の水を、
乾いた布巾で押さえとる」
「よく研がれた専用の出刃で三枚におろし、
血合(ちあい)骨をのぞいて節(柵)取りし、
薄板に包んで氷の冷蔵庫に収める」
「扱いは丁寧を尽くす」
この手際が実にいい。
「器を選び水を潜(くぐ)らせて、
ためらいのない包丁で上身をへぎ、
重ねて山にして、白いけんの前におき、
季節の芽じそや茗荷(みょうが)をあしらい、
山葵(わさび)は右手前にとめる」
「刺身の盛り付けには型がある」
それは学んだほうがいい。
「型がある」から、
その型に備わった「きれいさ」を観(み)る。
そして「きれいさ」を観れば、
仕事がよくわかる。
「その魚、保管、その包丁、その器、
盛り込みに人の心が表れる」
「人間臭は消え、
清い心だけになるのがよい」
スーパーマーケットの刺身盛り合わせも、
ここまでいかなくとも、
ある程度の「きれいさ」が必須だ。
それは会社ごとに、
決められていなければならない。
「関西や瀬戸内地方では、
刺身は『お造り』とも言われる」
いまは全国的に「お造り」で通用する。
「『造る』は醸造、造船などのように
到底人間には作れそうもないものにあてられる」
お造りはそんな言葉であるし、
そんな商品である。
鍵を握る言葉「きれい」とは?
土井さんは定義する。
偽りない真実、
善良さ、
表出する美しさ、
の三つ。
それは人間にとって
最も大切な『真善美』。
「カント哲学の影響で
19世紀後半移入された概念らしいが、
そんなことを知らずとも、
私たちは『きれい』という言葉を
日常的に使っている」
お造りの真善美。
スーパーマーケットの刺身にも、
わずかでいいから真善美が欲しい。
この真善美と生産性。
一流の料理屋でも、
素早く顧客に出すには、
スピードと量をこなすシステムがある。
ここでもトレードオンが出てくる。
お造りの真善美。
そのことを知ったうえで作業をすると、
現場は少しずつ変わってくるかもしれない。
偽りのない真実、
限りない善良さ、
表出する美しさ。
仕事の中に「きれいさ」を求めたい。
〈結城義晴〉
2 件のコメント
小林秀雄の「美は真の母なのかもしれないのだ」という言葉を思い出しました。真善美、日本の政治にも求めたい所です。
吉本さん、小林秀雄まで知ってるんですね、凄い。
真善美は政治家と経営者ににこそ、必要です。