「義人なし、ひとりだになし。善をなす者なし、ひとりだになし」
ネバダ州ラスベガスから帰国して2日。
まだまだ時差ボケが治らない。
能率は下がりっ放しだし、
午後になると眠くなる。
向こうの時間で、
日付けが変わるころ。
ひどくだるくて、睡魔が襲ってくる。
3月、4月、5月と、
毎月のように、アメリカに渡った。
これも立教大学大学院の講義とゼミがあるから。
しかしそうもいっていられない。
帰って来てからも、
今週末の日経MJの寄稿記事、
来週の商人舎ミドルマネジメント研修会、
その後のハーバード・リテール教室、
そして来月冒頭の『月刊商人舎』の入稿が続く。
毎日更新宣言ブログと、
商人舎magazineの入稿は、
日々、欠かすことがない。
今日のWeekly Specialは、
元電通マンで「電通一の流通通」土井弘さんの【目玉講義】。
日記調査と生活導線マーケティング②。
サブタイトルは、「衝動購買7割説の素朴な疑問?!」。
計画購買と非計画購買でなく、
「うれしい衝動購買」と「悲しい衝動購買」、
さらに「許せる衝動購買」。
リアリティのある購買行動分析が必要だと説く。
素晴らしい。
さすが土井さん。
Daily商人舎は、
「Y世代は買物よりサービスの経験価値を重視」。
アメリカでGeneration Yと呼ばれる世代。
この世代の特徴が経験価値に基づく消費。
それがライフスタイルセンターや、
ホールフーズ、ウェグマンズ、イータリーなどの、
外食・中食・内食の融合として現出している。
Daily商人舎は、もう一本。
4月SM統計発表「アベノミクス効果表れず」
これはずっと、
[毎日更新宣言ブログ]で報告していた内容。
商人舎magazineに移行した。
ご愛読願いたい。
お申し込みは、こちら。
かくて私のブログは、もっと自由な、
ものの着眼点や行動日誌へと、
移行する。
つまり結城義晴が動いて、考えたことへ。
もともと、気楽に、毎日、
そんなことを書きたかった。
商人舎magazineが存在しなかったから、
ジャーナリズムの役割も果たしてきた。
しかしこれからは、
『月刊商人舎』と商人舎magazine。
私は「ほぼ日」の糸井重里の巻頭言の如く、
毎日更新宣言を書いていく。
もちろん、手を抜くことはない。
よろしく。
さてその糸井さんの
「今日のダーリン」。
「義」について書く。
私の名前・義晴にも、
「義」という字が使われている。
私の父は、
結城義登。
子どものころは、
父の名前のほうがいいなあ、
と感じていた。
今は、そうでもないけれど。
糸井さんの文章。
「毎日のように、
争いやいさかいがあります」
政治もビジネスも、
会社と会社も、人間同士も。
「どこまでもどこまでも争い続けて、
どちらかが正しくてどちらかが悪いと、
決着をつけなくてはならないことって、
ほんとうにあるのかなぁ、
と、よく思います」
「ぼく自身は、器の小さいところがあるので、
嫌な目にあった相手には、
二度と会いたくもないなどと、
思いを硬直させてしまうことがあります」
ここで自分を持ち出すのが糸井流。
「しかし、じぶんのそういう小ささについて、
残念なやつめ、という気持ちもあるものですから、
たとえ激しく争っていたあとでも、
落ち着いて矛を収める人のことを、
見事だと尊敬します」
「心の奥で、まだ消火しきれない煙がくすぶっていても、
顔で笑って、敵だった相手と握手をできる人を、
かっこいいなぁと思います」
それが「義」だという。
「『義』というものを重んじるのなら、
それは、真実の審判を
うやむやにする態度なのかもしれません」
「義人なし、ひとりだになし」
これこそが、
「真実のさらに上にある真実だ」と、
糸井さんは考える。
義人なし、ひとりだになし、
聡き者なく、神を求むる者なし。
みな迷いて相共に空しくなれり、
善をなす者なし、ひとりだになし。
〈ローマ人の手紙 3章 10~12 節〉
このあたり新約聖書のパウロが書いているところ。
教会をつくったパウロは、
人間に対して自虐的。
いや、宗教はみな、
そんな迫り方をする。
糸井重里は違う。
コピーライター出身だけに、
perceptionを気にする。
perceptionとは、「知覚・認識」、
あるいは「知覚されるもの」。
「争いやいさかいは、いつでも、どこでも探せます。
そして、それは人の真顔でのやりとりを見られるから、
他人にとっては『おたのしみ』にもなりえるでしょうし、
『勉強になる』とも言えそうです」
「だけどそれは、どうもあんまり、
かっこよくはないです」
「じぶんの小ささは、
自慢になるものじゃないですもんね」
どうやら「義」はとんでもないことなのだ。
一方、孔子の儒教の説く「義」は、
「五常」のひとつ。
「仁・義・礼・智・信」の中の「義」。
正しい行いを守ること。
人間の欲望を追求する「利」と対立する概念。
ここでも「義」はとんでもないこと。
しかし糸井さんは、
最後に救ってくれる。
「どこまでも正しい人なんて、いない。
どこにいるって‥‥?」
この先を考えたい人は、
『ふしぎなキリスト教』をどうぞ。
講談社現代新書の橋爪大三郎×大澤真幸。
アメリカに持って行って、
読み終えた。
実に面白いし、
まさに目から鱗。
嘘と言い訳にまみれた人、
「義」からほど遠い人。
糸井流に言えば、
かっこよくはない。
自分の小ささは自慢にならない。
しかしこんなことを考えていると、
こんどは目が冴えて、
眠れなくなる。
眠くなったり、
眠れなくなったり。
それが人間の性でしょう。
〈結城義晴〉