雨の日の「善知識」と「わたしをよく知ること」
雨の土曜日。
しかし、温かい雨。
もう、夏が、そこまで、
やってきています。
自由が丘の花屋さん。
MONCEAU FLEURS。
モンソーフルール。
パリ17区のモンソー公園。
その公園の角のアパルトマンに、
同じ花屋がある。
明日のマザーズ・デーに向けて、
色とりどりのカーネーションを、
店頭一杯に飾っている。
園芸農園にも、
花がいっぱい。
雨に濡れて、それらが、
美しく輝く。
仕事のあいまに、
季節を感じたい。
机の片隅やテーブルの上、
もちろん店や売場に、
季節を「演出」ではなく、
表現したい。
季節の移り変わりを知って、
この一瞬を大切にしたい。
この一瞬の積み重ねこそ
君という商人の全生涯。
倉本長治の言葉が、
雨の日にはなぜか響く。
長光山妙蓮寺。
日蓮宗大本山池上本門寺の末寺。
「善知識」
ともに語り
ともに励ます
ともに歩む
人生の友
「善知識」は仏教用語で、
「勝友」「善親友」などと訳される。
ブリタニカ国際大辞典。
もとは「善い友人」の意。
「正法を説いて人を導き入れ、
仏道に精進させて、
解脱させる賢人のこと」
そんな友人が仕事にも欲しい。
仕事に一生をかけるとしたら、
「善知識」をもちたい。
糸井重里「ほぼ日」
昨日の「今日のダーリン」
このひらがなだらけの文章。
すばらしいので、
全文を掲載。
お許しください。
わたしには、
わたしがわかっていることと、
わたしがわかってないことが
あります。
わたしがわかっていることは、
わたしが見ていること、
わたしが聞いていること、
わたしが触っていること、
わたしが嗅いでいること、
わたしがなめたり
噛んだりしていること、
などなどがあります。
そういうふうに考えてみると、
わたしは、わたしを
あんまり見たり、聞いたり、
触ったり嗅いだり
なめたり噛んだり
していません。
さらに、わたしはわたしと
話してなかったりもする。
語りかけることも、
語りかけられることも、
あんまりたくさんは
ないような気がします。
だから、わたしは、
わたしのことをよく知らない。
知らないから、よくわからない
ということになります。
わたしが、わたしを
わかってないのに、
みんなが、わたしを
わかっているのかも
しれません。
みんなも、わたしのことを
それほど知らないから、
あんまりわかってないかも
しれませんけどね。
これほどいつも
ここにいるのだから、
わたしは、もっと、わたしに
話しかけたほうがいい。
わたしを見てやったり、
聞いてやったりもして、
わたしのことを、
知ってあげたらどうだろう。
ほんとは、なにが好きなの?
どういうことがしてみたいの?
どんなふうに生きたいの。
あれについては
これについてはどう思う?
問いかけたり答えたりをして、
わたしとつきあう。
ひとりの時間は、
それができる時間です。
ひとりのわたしが、
つよくなれるとしたら、
そのわたしを、
よく知ることからはじめる。
知らないわたしは、
弱くさえないままなのだから。
それは、あなたについても
おなじことです。
こんな「善知識」を、
もっていたい。
ともに語り、
ともに励まし、
ともに歩みたい。
季節の変わり目に、
そんなことを感じるのは、
いけませんか?
〈結城義晴〉