夏の甲子園決勝の「ゆやゆよん」と糸井重里の「まるごとの現場」
科(とが)のごと耐へるしかなき残暑かな
(朝日俳壇より 大分市・高柳 和弘)
(稲畑汀子選評)
まるで自らの科の如く耐える残暑。
自らへの謙虚な存問の一句である。
残暑の中の夏の甲子園。
第100回全国高校野球選手権大会。
その決勝は、
金足農業対大阪桐蔭。
金足農業のエース吉田輝星投手。
疲れがたまっていて、
打ち込まれた。
力感あふれるフォームからの投球。
直球は伸びる。
しかし、大阪桐蔭5番の根尾昂が見事捉えた。
バックスクリーンの特大ホームラン。
ライト青地斗舞が、
ウィニングボールをつかんだ。
ナインがマウンドに駆け寄って、
天に指を突き立てる。
吉田輝星は泣いた。
大阪桐蔭は歓喜した。
私は2時過ぎに新幹線のぞみに乗って、
パソコンで決勝戦を観戦した。
三島のあたりで、
入道雲の上に富士の頂が見えた。
友来たる入道雲の彼方より
(同 東京都・桜井 京子)
(高山れおな選評)友と会う喜びを
雲の白と空の青が荘厳する。
京都を過ぎたあたりで試合は終わった。
大阪の空はもう、秋だった。
今里新地の料亭久恵。
鱧の季節は終わり、
代わりに見事なランプステーキ。
ほおづきが添えられていた。
食べてみると甘い味がした。
万代幹部の面々と、
金足農業の校歌斉唱スタイル。
私の左隣が阿部秀行社長、
右が不破栄副社長、
一番左が芝純常務、
右は東尾里江人事部マネジャー。
八月は真空日本ゆやゆよん
(同 久留米市・西原 和美)
(高山れおな選評)極暑や戦争の歴史など、
様々な要素が詰まった「真空」だろう。
「ゆやゆよん」は中原中也の詩から。
2018年の夏が終わった。
「ほぼ日刊イトイ新聞」の巻頭コラム。
「今日のダーリン」の先週の文章。
「いくら野球好きでも、
いつも球場で観戦はできない。
だから試合をさまざまな中継で
たのしむことになる。
テレビ中継を観る場合もあるし、
ラジオの中継もある。
そして、ネットでの記号による中継も
便利でよく見る」
「しかし、どの場合も、
実際に行われている野球を、
それぞれのことば(記号)で
表しているものだ」
私はパソコンで見た。
「投手がどんな球を、
どういうコースに投げて、
それがどれほどの速度であったか
というようなことも、
すべてことばで伝えられる。
投げられたボールを、
どういう打者が、どう打って、
どこに飛んでいって、
だれがどう捕ったかについても、
ことばにできるし、
それを理解することもできる」
便利になったわけだ。
「テレビでの野球中継なんて、
レンズを通して、
どんな近くで見ている人よりも、
ずっと近づいてゲームを
見ることができる。
スローモーションだとかについては、
もちろん、
選手たちの顔の表情のアップなども、
球場にいる人たちには
見ることのできないもの」
「しかし、それでも、テレビ中継も、
映像と音声と文字という
記号を駆使した表現なのである」
これはソシュールやパースの記号論だ。
「”試合まるごと”を、
あっちからこっちから描写して、
あたかも”まるごと以上”のものを
見せているような”表現”を
伝えてくれているのだ」
「今年の甲子園の準々決勝を
観客席で見ていた人も、
テレビで見ていた人も、
おそらくだけれど、
あのスクイズの場面で
2塁走者を目で追っていなかった」
金足農業の2ランスクイズの場面を言っている。
「でも、実際に球場で菊地選手は
本塁目指して走っていた。
そして、4万人以上の観客のなかには、
それをじっと見ていた人もいたにちがいない」
「その人は、他のなにかを
見落としているのだろうけどね」
ここで糸井の真骨頂が出る。
「”試合まるごと”のほうが、
“表現”よりもでかい」
「”まるごと”のなかに入りこんで、
それを味わう豊かさが、いま、
求められているものだ」
同感だ。
「ライブとは”まるごと”のこと。
じぶんを含んだ”現場”」
「ライブ販売」は阪急オアシスが始めた。
「立ち売り」は万代の得意とするところだ。
それらはいずれも、
自分を含んだ「まるごとの現場」である。
それに勝るものはない。
〈結城義晴〉