田村正紀先生を宝塚に訪問した、のどかな日の思い
朝から東海道新幹線。
この辺りに富士の姿が見えるはず。
花曇の季節にはまだ早いけれど、
残念ながらその容姿は雲に隠れている。
そのかわりに富士川の橋は、
妙にくっきりとしている。
もう春です。
新大阪に到着して、
JR福知山線で宝塚へ。
右手にJR宝塚駅。
左手に阪急宝塚駅。
駅から5分ほどで閑静な住宅地。
のどかな春先の街角。
田村正紀先生のご自宅を訪問。
神戸大学名誉教授。
2時間もたっぷりと、
お話を聞かせていただいて、
目から鱗の中身ばかり。
中内功さんをはじめとして、
伊藤雅俊さんや鈴木敏文さん。
岡田卓也さんと小嶋千鶴子さん。
日本の流通業はもとより、
アメリカ、ヨーロッパ、中国へ。
さらにウォルマートやカルフールから、
ビクトリアズシークレットまで、
話は歴史をたどり、
世界中を駆け巡った。
さらにアリストテレスから、
マックス・ヴェーバーや石田梅岩。
チェスター・バーナードや、
ロー・オルダースン。
貴重なお話で、何度も目から鱗。
いま、こんな勉強や交流ができる先生は、
ほかにはまったく見当たらない。
私は立教大学大学院の結城ゼミで、
田村先生の『業態の盛衰』を、
テキストにしていた。
それから『立地創造』も使った。
私の業態論やフォーマット論は、
田村理論をベースにしている。
79歳となられた現在も、
毎年、本を書かれている。
本物の研究者の、
本物の研究書。
すごい。
田村正紀先生に心から感謝したい。
さて、日経新聞の「私の履歴書」。
今月はやはり神戸大学名誉教授、
政治外交史家。
五百旗頭真さん。
学者としてはちょっと、
やり手過ぎる気もするけれど。
今日は第25回の「復興構想会議」
2011年3月11日。
東日本大震災の時の話。
復興構想会議議長に就任。
新聞は批判した。
「議論百出とりまとめ難航」
しかし6月25日には、
報告書は「悲惨のなかの希望」。
菅直人首相に答申。
「歴史を断絶して
安全なまちを再建する創造的復興」
「高台移転と海辺のまちでの
多重防御を組み合わせる構想」
そして国民は復興税を受け入れた。
「1つの被災地を
全国民が支える構図を許した
日本国民に私は敬意を覚える」
同感。
一月、往ぬる、
二月、逃げる。
三月、去る。
8年目の3月がやってくる。
しかし今日、宝塚に来て、
1995年1月17日を思い出した。
阪神淡路大震災からは24年が経過する。
私の著書の短文。
「阪神大震災」
阪神大震災、
お見舞い申し上げたい。
亡くなられた方々の
ご冥福を祈りたい。
尊い命を、家族を、同朋を、
奪い取られた悲しみはつきない。
家を、店を、
財産を失った絶望は深い。
しかし、人びとは、
たくましかったし、
モラルは高かった。
被災地の商業は任務を果たし続けた。
スーパーマーケットは、
生存のための配給基地となった。
コンビニは、
余震の続く闇のなかの灯台に変わった。
フードサービスは、
温かい食べ物の炊き出し係に徹した。
メーカーや問屋は、
補給部隊の役を担った。
小さな店も、大きな企業も、
皆が、このときこそと、
日ごろの仕事の腕を発揮した。
いつもよりも素早く、力強く、黙々と。
そのそばで、
瓦礫のなかに
埋まったままの人たちも、
また、いた。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、
商業は働き続けねばならない。
店は客のために、是が非にも、
開けておかねばならない。
有事のときにこそ、頭を柔らかくし、
冷静に、活躍せねばならない。
人びとが立ち上がる礎に
ならねばならない。
商業人は、
どんなときにも、
明日を、
見つめていなければならない。
私たちは、震災に勇敢に
立ち向かった仲間を心から尊敬しよう。
商業という仕事を貫いた同志たちを
誇りにしよう。
こんなときだからこそ、深く深く、
私たちの役割の大切さを自覚しよう。
そして、この阪神大震災を
永く記憶にとどめておこう。
崩れ果てた廃墟のなかで、
人びとに喜んでもらった
この感動を、
これからの支えにしよう。
未来のために。
客のために。
店のために。
蘇える街のために。
私たち自身のために――。
今日の宝塚の街並みは、
本当にのどかな春の中にあった。
〈結城義晴〉