結城義晴・燃える闘病日記⑩最終回、私の両目に心より感謝!
自分の目に関する歴史を振り返る。
変なテーマですが、
私にとっては重要な出来事ばかりだったのです。
「㈱商業界に入社して」
さて、10歳からコンタクトレンズ常用者となった結城義晴。
右目コンタクト使用で、2.0。
左目裸眼で、0.7。
これで、編集記者としての仕事に邁進しておりましたが、
36の時に『食品商業』編集長となる。
40歳くらいから、会社の制度で、
毎年、人間ドックに入るようになる。
すると、40代中盤から、右目の緑内障を指摘される。
今から考えると、
左目ばかり酷使しているようでいて、
実際には見ていないように思われる方の目にも、
負担がかかるようになっているらしい。
さらに、右目は水晶体を摘出しているので、
眼球の大半の部分を占める硝子体(ガラス体)が、
後ろから圧迫を加え、それが眼圧を上げるよう作用していた。
そんなことを知らない結城義晴、
40歳から少年ソフトボールの監督を務める。
土曜・日曜、休祭日、休みなしで、
グランドに出る。
ノックの嵐、激戦続き、
チームはそこそこに知られるようになるものの、
右目はいつも風やほこり、ごみに悩まされた。
さらに、40代後半から、仕事にパソコンが入ってくる。
これも、目には負担のかかることばかり。
44歳のころ、取締役編集担当、
49歳の時、専務取締役編集統括、
そして50歳、代表取締役社長と、
役目は重くなっていきます。
そして、53歳の春、突然、網膜剥離にかかってしまうのです。
4月28日、午前中、横浜・大口のユニー関東本部で講演。
なぜか、この日は熱が入って、
2時間を超え、3時間近くの講演となりました。
どうも目の具合が悪く、
掛かり付けの山王病院眼科に行って検査してもらうと、
若い茶髪の医者は言う。
「そのまま動かずに、池尻の東邦大学病院に行ってください」
タクシーで、池尻へ。
北喜幸先生に診てもらったら、
「すぐに手術です。このまま入院してください」
私、講演のために、ダブルの濃紺のスーツを着ていた。
そのまま入院。
4月30日、午後8時から2時間半の手術。
剥がれていた右目の網膜を縫い合わせる処置を受けたのでした。
10歳からコンタクトをつけて、酷使した両目。
そのうちの弱い方の右目に、ストレスや疲労が集中する。
私の弱点なのです。
ゴールデンウイークを、東邦大学病院のベッドで過ごした後、
右目は、コンタクトをしても、0.7くらいしか見えませんでした。
直線が、ぎざぎざに見えるからです。
網膜というのは、目をカメラに例えると、フィルムの機能を担う。
そのフィルムが、剥がれてきたので、縫い合わせた。
だから映像がどんなにくっきりと、目の中に入って来ても、
写りこむフィルムが凸凹ならば、写りは悪い。
視力は出ない。
それでも、ゴルフなどのおとなしいスポーツは続けておりました。
少年ソフトボールは、監督を退き、チームの代表。
それから2年、㈱商業界を卒業し、
㈱商人舎を設立したばかりの今年2月、
右目の調子が悪く、
とうとうスーパーマーケットトレードショー前日の深夜12時ころ、
東邦大学病院にタクシーで乗り込むと、
眼圧が40台後半。
点滴を打って眼圧を下げてもらい、
有明ワシントンホテルに戻る。
翌日、北医師の診断で、緑内障の手術を決定。
単行本執筆や講演のスケジュールを調整して、
さらに4月17日の「商人舎発足の会」の前に、
手術日が設定されました。
この間、点滴を2回受けつつ、トレードショーを乗り切る。
結局、3月24日(月曜日)、入院。
そして25日(火曜日)、夕方、手術。
「緑内障の二度の手術模様」
さて、25日は、朝食をとってから、
手術を待つために、病室で安静に。
点滴を打ち、点眼をしつつ、手術を待つ。
この日は、東邦大学病院で、
大安の日のホテル並みに手術が目白押し。
私が、自室をストレッチャーで出たのは、
6時50分を回ったころでした。
ストレッチャーに乗せられて、
病院の、低い天井を見ながら、
手術室へ。
5階の自室から、エレベーターに乗り換えて、
2階、手術室へ。
昔、子供のころ、ベン・ケーシーというテレビドラマがあった。
そのイントロダクションが、こんな感じだった。
ストレッチャーで運ばれていく患者の視点からの映像だった気がする。
私は第6手術室。
この病院には、7つの手術室があるという。
手術室前までは、病棟担当の看護師が運ぶ。
白い制服。
手術室に入ると、手術担当の看護師。
みな水色の制服。
私は、頭に帽子をかぶせられる。
手術台に移し替えられると、
耳に音楽が聞こえた。
ゆずのメロディー。
すぐに左肩に注射。
右手には、血圧計。
5分ごとに自動的に膨らんで、血圧を圧迫し、
計測する。
手術中、この規則的に膨らんでは「プシュー」という音とともに計測する血圧計には、
なぜか精神的に助けられた。
励まされた。
胸には心電図のセット。
手術中、ずっと、「ピッピッピッ」という音を出している。
左手人差指の先には、サックがはめられ、
酸素が末端まで通っているかどうかをチェックする。
まず、両目に目薬を点される。
これがよく効く麻酔薬。
目薬だけで、十分な麻酔が効いて、
白眼に直接注射したり、メスを当てたりできる。
その後、右目の部分だけ穴のあいた布が顔にかぶせられ、
テープで右目の周りが固定される。
私はもう右目だけが、この世と繋がっているような気分。
そんなとき、右手の血圧計の5分ごとの「プファー」の音と、
心電図計の「ピッピッピッ」という音、
そしてゆずのメロディーが、私を癒してくれる。
麻酔が効いてきたら、右目に注射。
これが決定的に麻酔効果を高める。
その後、何でもないかのように、執刀、手術。
ときどき眼を洗い流す水が掛けられる。
右目で、物を見ているはずが、
その右目を切り開いて手術は行われている。
濃い灰色の背景に、二つの光が見える。
それだけ。
切られている感覚はないし、
メスが見えるわけでもない。
ただ濃い灰色の背景に、二つの光。
心電図と血圧計の音。
いつしか音楽は、ストリングスに変わっている。
左手の中指、薬指、小指がしびれてきた。
目に水をかけている。
富田教授の声。
北医師の相槌。
手術は淡々と進み、
十数回の血圧計のふくらみが終わると、
「これでいいだろう」
富田教授の声。
「やるべきことはやりました」
私の眼は、眼圧が高い。
眼圧を調節するために、眼中の水分を抜き取るパイプがあるが、
それが金属疲労をきたしている。
そこで、新たに、バイパスをつくる。
その手術。
人間の体は、傷が付けられると、
自然治癒力を持つ。
目にあけたバイパスは、自然に閉じられてしまう。
するとまた眼圧は高まる。
だからここに抗癌剤を塗りつけるという。
それによって、バイパスが保たれる。
しかし、バイパスが太すぎると、
今度は、眼圧が下がりすぎてしまう。
眼圧は低すぎても高すぎても、失明する。
だから、バイパスの太さを調整しなければならない。
それが、この緑内障手術のあとに施される大事な処置。
部屋に戻ると、夜9時を過ぎていた。
1時間ほど静養して、食事。
考えてみると、朝、食べてから何も口にしていない。
いつもの病院食。
お腹が「グー」と鳴った。
もちろん完食。
その夜は、意外にも熟睡。
翌26日、朝から診察。
眼を開いて、目薬を点し、
「正面を向いて」
「足元を見て」
「右を見て、左を見て、上を見て」
「眼圧は25です。様子を見ましょう」
私、この日も、ブログを書いた。
短いもの。
[毎日更新宣言]だから。
お約束だから。
さて、26日の夕方、富田教授の見立て、
「明日、硝子体をとりましょう。
ゲル状の硝子体が、バイパスに入り込んできている」
こんな経緯で、27日、二度目の手術をすることになった。
手術は、やはり同じような手順を踏む。
準備も術式も。
これをマニュアル方式と呼ぶ。
マニュアル否定を唱える人がいる。
私は、それはおかしいと思う。
例えば、手術の時、
たくさんの人がそれにかかわる。
実際、二度目の手術には、富田教授は都合で立ち会えず、
北医師の執刀となった。
それでも、まったく同じ手順を踏んで、
つつがなく手術は行われた。
マニュアル方式を採用しない手術があるとしたら、
私は怖くて、御免こうむりたい。
同じ手順で、血圧計、心電図計が付けられ、
同じ手順で麻酔の目薬と注射が打たれた。
しかし、術式は違っていた。
今度は硝子体除去手術。
北医師の技術は高く、それでも、この二度目の手術にも、
1時間半がかかった。
無事、硝子体は取り除かれ、
バイパスへのゲル状の硝子体の侵入はなくなった。
この晩も、夜の食事、完食。
私は、元気だった。
「私の両目に、ありがとう」
振り返ってみると、
ずいぶん右目には迷惑をかけた。
10歳の夏。
あんなにも蛙を撃たなければ、
罰が当たることもなかったかもしれない。
学生時代、駆け出し時代。
あんなにも酷使しなければ、
網膜剥離や緑内障にならずに済んだかもしれない。
しかし、私は、振り返らない。
この手術も、
積極的な、攻めの手術だったし、
ポジティブな入院だった。
秋山先生、富田教授、北医師。
皆さんに感謝している。
皆さんのおかげで、仕事をすることができた。
皆さんのおかげで、ここまで生きてきた。
ありがとうございます。
何よりも、私自身のこの右目。
よく耐えてくれました。
そして、この左目。
よく支えてくれました。
両目が、互いにかばいながら、
ものを見続けたから、
今の私がある。
見たものを感じ、考える自分がいる。
私は、右目に対して、
四度の手術をしてもらいました。
どれも大きな手術でした。
どれも、私の人生に、影響をもたらした。
これからも、お世話になります。
この両目には。
ありがとう。
目を見開いて、合掌。
<結城義晴>
4 件のコメント
ご退院おめでとうございます。神様が与えて下さった休養だと思って、ゆっくりなさってください。
私も新たに、こどものためのリトミック教室を、オープンさせました。
合同クラス会では、お会いできないようで残念ですが、お仕事頑張って下さい。
密かに、ジジのファンです。
仲谷喜美子でした
仲谷さん、ありがとうございます。
リトミック教室、頑張ってください。
近くですので、一度、顔を出しますよ。
合同クラス会は、まことに残念です。
ジジもよろしく。まだまだ変身します。
祝!退院・・・
眼の復活とともに4月17日に向けての照準が射程距離入りなんでしょうね、、、
貴会のオレキレキからみれば場違いかも知れないけど、楽しみにしてTFTホールに出かけますわぁ・・・
ウォルさま、退院しましたが、日曜まで療養です。
4月17日、商人舎発足の会で、お会いできること、
楽しみにしています。
商業経営問題研究会にも、
時間があればご参加ください。
商人舎オフィスにも、お寄りください。
大歓迎いたします。
いろいろな意味で、仲間・同志ですからね。