作家・北杜夫「マンボウ」の死とセルコチェーン設立50周年記念の平富郎「競争こそ企業と経営を磨く砥石」
昨日のこのブログで、
「北風小僧の三太郎」がやって来たと書いたら、
それは「木枯らし1号」だった。
いよいよ、晩秋。
二十四節気の霜降(そうこう)が、
今年は今週月曜日の24日で、
立冬(りっとう)は2週間後の11月8日。
読んで字のごとく、
霜が降りて、
冬が立つ。
1年を24に割るのだから、
ほぼ半月。
霜降は「楓や蔦が紅葉し始めるころ」とされ、
さらに霜降から立冬までの間に吹く寒い北風を、
「木枯らし」と呼ぶ。
私は今日、
成田空港に入り、
明日出発。
今年、6度目の渡米。
9月28日にダラス、サンフランシスコを訪れ、
帰国してから5日おいて、
10月9日から、ケルン、パリだった。
今回はその後、時差が直らず、
体調は悪くはないが、
良くもない。
気を付けるといっても、
睡眠をとることしか手立てがない。
しかしまとまって眠る時間もないし、
時差ぼけで眠れない。
食欲は旺盛で、
気力も充実しているから、
睡眠不足は、
細切れの眠りで補う。
今回帰国したら、
まとめて眠り続けるとしよう。
そんなことを考えつつ、
いま、定宿の成田エクセルホテル東急に入った。
さて、北杜夫さんが亡くなった。
驚いたことに、
4大新聞の朝刊一面コラムすべてが、
北杜夫さんの逝去を取り上げた。
朝日新聞の『天声人語』
「小学生のころ、こんな俳句を作ったそうだ。
〈コオロギがコロコロと鳴く秋の夜〉。
大歌人だった父は面白半分に
それを見たが何も言わなかった、
とご本人は回想していた」
「かつて雑誌に『私の作品など茂吉の一首にも及ばない』と語っていた。
2年前にお会いしたときに問うと、
やはり頷(うなず)いておられた。
〈父より大馬鹿者と来書ありさもあらばあれ常のごとくに布団にもぐる〉は
若き北さんの一首。
天上で、大いなる父君と再会を果たしているころか」
読売新聞の『編集手帳』
「〈恋人よ/この世に物理学とかいふものがあることは/
海のやうにも空のやうにも悲しいことだ…〉
◆物理の答案用紙に書かれた詩は以下のようにつづく。
〈僕等には/クーロンの法則だけがあれば澤山(たくさん)だ/
二人の愛は/距離の二乗に反比例する/
恋人よ/僕等はぴつたりと抱き合はう〉
『斎藤宗吉』と名前の欄にあった。
旧制松本高校に在学していた頃の北杜夫さんである。
作家は処女作に向かって成熟していく――」
日経新聞の『春秋』
「重厚な大河小説から、ユーモアの効いた中間小説、ファンタジー、童話まで。
北さんが紡ぎ出した世界は多彩だった。
なかでも広く親しまれたのは
『どくとるマンボウ』の名前を冠したエッセーだろう。
軽妙洒脱(しゃだつ)の文章は、
厳格な印象の鴎外や茂吉とは対照的で、
日本の文学をずいぶん豊かにしたような気がする」
残念ながら『春秋』が一番つまらない。
私は今回は毎日の『余禄』に軍配を上げたい。
「北杜夫さんは子供時代、
雑誌の『少年倶楽部』や日記帳を入れていた押し入れに、
ちゃぶ台と懐中電灯を持ち込んでよく籠もった」
「父の斎藤茂吉にこんな歌がある。
『押入れにひそむこの子よ父われの悪しきところのみ受継ぎけらし』」
「『そう』の時は夜、明かりをつけた家を開け放ち、
集まる虫に網を振り回した北さんだ。
捕った虫は親しい昆虫収集家に贈った。
その収集家が沖縄県の新種の甲虫に北さんの名前をつけたと
報じられたのはつい先月である。
家人には大迷惑の虫捕りも、報われたようだ
▲学名ユーマラデラ・キタモリオイ、
和名マンボウビロウドコガネ。
この世の仕事を成し遂げ、
押し入れの中の夢見る少年は今
コガネムシとなって飛び立った」
これだけ看板コラムに取り上げられる理由は、
コラムニストがみな、
「マンボウ」世代に属するからだろう。
マンボウ世代だけれど、
マンボウ精神を受け継ぎつつ、
物書きを続けるのは難しい。
続けているのが、
毎日の『余禄』コラムニストということになるか。
そのことが面白い。
実は私も「マンボウ世代」。
若いころ、北杜夫ファンだった。
『幽霊―或る幼年と青春の物語』1960年。
『どくとるマンボウ航海記』1960年。
『夜と霧の隅で』1960年。
この時、杜夫33歳。
輝いていた。
『遥かな国遠い国』1961年。
『どくとるマンボウ昆虫記』1961年。
『南太平洋ひるね旅』1962年。
『船乗りクプクプの冒険』1962年。
私は夢中で読んだ。
『楡家の人びと』1964年。
『どくとるマンボウ青春記』1968年。
大河小説は重厚だった。
それからちょっと、マンボウから離れた。
そして1993年、『どくとるマンボウ医局記』。
このあたりで、「あれっ」と思った記憶がある。
つまらなく感じられた。
私が変わったのか、老いたのか。
北杜夫が変わったのか、尽きたのか。
時代が変わったのか。
バブル崩壊のあとだった。
作家は処女作が一番いい。
そんな説がある。
ある意味で、賛成。
しかしその輝いていたころの価値が、
損じられることは断じてない。
以って自戒とすべし。
享年84。
ご冥福を祈りたい。
合掌。
昨日は、協同組合セルコチェーン
設立50周年記念大会。
場所は新横浜国際ホテル。
1962年(昭和37年)5月に事業協同組合となり、
今年5月に50周年を迎えた。
中小規模のスーパーマーケット56社が主宰。
いわゆる小売主宰ボランタリーチェーンとして、50年。
加盟歴30年以上の企業は、15社に上る。
高度成長期の1970年代には、各地に地域本部を設け、
2000年代にはプライベートブランドを開発・展開。
2010年代に入り、「セルコライブネット」システムを開始。
これは売場のライブ映像を店舗に配信するサービス。
情報、知恵、ノウハウを共有する着実な活動を行ってきた。
もちろん、低成長時代に入った1990年代には、
中小スーパーマーケットの集まりだけに、
チェーン運営には会計的に厳しい面もあった。
「皆、手弁当で勉強をした」
当時の会長の平富郎理事相談役(㈱エコス会長)は振り返る。
現在は、加盟企業組織の協同組合セルコチェーンと、
本部機能の㈱日本セルコとの二本柱で、
ローカルスーパーマーケット56社476店の活動を支える。
震災のため、延期となっていた記念式典を、
昨日、やっと迎えた。
行政、加盟店、お取引先など、
関係者がお祝いに駆けつけ、会場は満席。
はじめにセルコチェーンの佐伯行彦理事長が開会のあいさつ。
㈱さえきホールディングス社長。
続いて経済産業省中小企業庁の岡本勇二さん、
㈱ライフコーポレーション会長兼CEOの清水信次さん、
㈱商工組合中央金庫東京支店長の中川祐一さん、
三菱食品㈱会長の中野勘治さんが来賓祝辞。
「メガバンクの誕生のように、
消費者にとって大きなことはいいことばかりではない。
地域社会に貢献しよう、
その職責を果たそうとしているセルコチェーンは大事」と清水さん。
三井食品の中野さん。
「イギリスのジャーナリスト、ビル・エモットは、
『製造業偏重だった社会から今までの軸を変える必要がある。
日本の長期資産を生かすべきだ』と語る。
日本は知力、助け合い、ふれあいという資産を持っている。
ライフラインサービスをに担う食品産業こそ、これからの軸になる」
その後、「50年のあゆみ」のDVD放映、
功労者、永年加盟組合員、永年賛助会員などの表彰などがあり、
㈱与野フードセンター社長の井原實副理事長が謝辞を述べ、
第一部の式典をしめくくった。
私も機関誌『セルコ・レポート』にもう20年近く、
隔月連載エッセーを書き続けている。
タイトルは『スーパーマーケットへの進言』。
私の窓口はずっと取締役管理部長の小野寺義夫さん。
編集は㈱タンクの石田京さん。
お二人とも表彰された。
第二部は場所を移して、記念講演。
基調講演は佐伯理事長。
「50年目の節目に これからのセルコチェーン」
「1兆円グループをめざし、
仲間企業との絆を深め、強い商品づくり・店づくりを推進したい」。
講演というよりも、代表としての強い意思表明だった。
記念講演は平理事相談役。
これが、とてもよかった。
「歴史を見ても、日本人は、
とことん追い込まれると強い。
劣悪な環境、過激な競争の中からこそ卓越した人が出る。
東北から、次の世代を担う大政治家、すぐれた経済人が誕生する」
「スーパー成長の絶対条件は、
人口増、インフレ、物不足だった。
1990年をピークに、今は真逆。それが時代背景」
「イオンはヨーカ堂にMDでは勝てないと、
坪100円の郊外の土地を買って出店した。
それが、モータリゼーションの波に乗り、成功した。
負けたことが、勝ちの要因に変わる」
「時代は止まっていない。
いま勝っている要因が、
将来負けの要因になるかもしれない。
だから、時代を見失わないよう。
トップの責任は重大だ」
「トップがまじめに頑張ればいいとだけ思っていては、
従業員がかわいそうだ。
時代の変革の時こそ、一番得意なものを捨て、
チャレンジしなければなければならない」
「スーパーマーケットに天才はいらない。
努力だけが必要。
社長は仕事量を減らすな。
寝る間を惜しんで学ぶことが大事」
「競争こそ、企業と経営を磨く砥石と思え」
「お客や取引先に迷惑をかけないで、
リスクの伴う改革をしよう。
究極のローコスト経営をせよ」
60分の講演時間。
70歳から健康のために夫婦で始めたゴルフにまで話が及び、
後半は「平ワールド」全開。
私は昨年夏、富士登山をご一緒した。
富士で、平さんの魂に触れた。
そして、第三部の祝賀パーティへ突入。
再び佐伯理事長。
「我々は戦う集団になる」
来賓の方々のあいさつ。
農林水産省食糧産業局食品小売サービス課の池渕雅和課長。
「ライブネットなど前向きな姿勢がセルコチェーンの原動力」
一般社団法人日本ボランタリーチェーン協会会長の小川修司さん。
「バイタルマジョリティこそ中小企業である」
日本スーパーマーケット会長、㈱ヤオコー会長の川野幸夫さん。
「製配販、力を合わせてサプライチェーンを築きましょう」
ヤオコーは一時期、セルコ・チェーンの優等生だった。
国分㈱会長兼社長の國分勘兵衛さん。
「スーパーマーケットのボランタリーチェーンは、
食のライフラインを維持するもの」
田中茂治㈱日本アクセス社長。
「個の力には限界があるが、
セルコの横の協業、製配販の縦の協業で成長しよう」
伊藤忠食品㈱濱口泰三社長。
「世代、時代は変わっても、
お店の役割は変わらない」
三井食品㈱長原光男社長。
「震災で消費者は地縁の大切さ、地域スーパーの役割を実感した」
セルコチェーン大会では、
いつも卸売業のトップ全員が祝辞を述べるのが恒例。
この日のパーティでは組合員の紹介があった。
地区別に企業のトップが壇上にあがった。
北海道・東北地区。
企業数の多い関東・甲信越地区は2回に分かれて登壇。
北陸・関西地区。
四国・中国地区。
いよいよ、お祝いの鏡開き。
そして乾杯!
この後は、動きもままならないほど人、人、人が入り乱れて、
懇親に次ぐ懇親。
㈱たいらやの村上篤三郎社長と㈱寺岡精工㈱の寺岡和治社長。
㈱サンシャインチェーン本部の川崎博道社長(右)、
営業取締役の新井明さん(左)、
三洋電機販売㈱顧問の大崎公司さん。
新井さんは、2年連続で来年2月のアメリカ視察に参加してくれる。
楽しみだ。
大橋幸多さん(左から2人目)と三井食品㈱の皆さん。
商人舎ファミリーの皆さん、
コーネル・ジャパンの皆さんも、
多数参加していた。
そして平理事相談役と佐伯理事長。
50周年、本当におめでとうございました。
「競争こそ、企業と経営を磨く砥石と思え」
私はこの言葉が一番好きだ。
平富郎が最も輝いていたときの言葉。
それは今、後継者たちに、
受け継がれている。
おめでとう。
ありがとう。
<結城義晴>