コトラー『私の履歴書』デ・マーケティング論争と店舗競争
よく眠れる。
というか、夜になると眠りこける。
目覚めると、
体力が回復してきていることを、
実感する。
ありがたい。
今日は赤穂浪士討ち入りの日。
しかし寒いけれど快晴。
現在の暦では、
討ち入りは1月30日だった。
その快晴の中、朝から、
東京・池袋の立教大学へ。
私の研究室があるマキムホールは右手。
マキムホールの入口。
右手にボード。
構内にいるときにはこのランプをつける。
私の研究室は5階503だが、
12階に上がると、
キャンパスを見下ろすことができる。
そして東京の街が広がる。
中庭の木々も冬支度。
名物の銀杏は剪定されて、
すっきりした。
こちらはまだ剪定前。
校門の前のヒマラヤ杉。
樹高25メートル。
クリスマスツリーの電飾が施され、
12月4日(火曜日)に、
点灯式が行われた。
11号館にガラス壁には、
イラスト。
キャンパス中が、
クリスマスに向かっている。
しかし我が結城ゼミ生は、
今、それどころではない。
修士論文の最終仕上げ。
頑張ろう。
悔いのない瞬間の積み重ねを。
私もともに闘う所存。
空に向かって凛と立つ銀杏のように。
さて日経新聞『私の履歴書』。
フィリップ・コトラー先生。
今週も絶好調。
水曜日のタイトル「処女作」。
それは名著『マーケティング・マネジメント』。
腕利き編集者
フランク・エネンバッハの提案。
「斬新な切り口の教科書を
最初に書くべきだ」
そこでコトラーは考えた。
「マーケティングの教科書とは
社会学、経済学、組織行動学、数学の
4つの基本的な学問分野に
基づくべきものだ」
そして「基本原理を説明するため
多くの実証・事例研究を取り上げた」
「企業組織には4つの志向がある」
生産志向、販売志向、
マーケティング志向、
そして社会志向。
生産と販売の間に、
「製品志向」を加える場合もある。
私は5つの志向で説明している。
この中でコトラーは、
マーケティング志向の必要性を強く訴えた。
だから顧客に意識を集中し、
そのニーズ、考え方、嗜好を知ること。
そして社会の繁栄と生活者の幸せに
影響を与える意識が重要となる。
「執筆に2年の時間を要した」
ここでコトラーの「4P」が提起される。
①製品(プロダクト)
②価格(プライス)
③流通(プレイス)
④販売促進(プロモーション)
この本は、
ケビン・ケラー教授を共著者として、
14版を数えている。
どんな作家も学者も、
処女作が一番いい、と、
私は勝手に思っている。
処女作にすべてが詰まっている。
私にとっても恐ろしいことだが、
それはこれから処女作を書こうという人には、
実にありがたいことだ。
連載木曜日は「学会投票」。
コトラーの終生の相棒シドニー・J・レビ教授。
1969年、二人は、
「マーケティング・コンセプトの拡大」を発表。
「対象の拡大はこの学問に
新たな命や発想を吹き込むことになる」
すると学会から反論。
「対象の拡大は学問の拡散と混乱を招く」
そこで学会投票となる。
そして勝利。
常に革新的な者が勝つ。
その結果、「4つのP」の枠組みが、
他の分野でも有効かどうかの研究が始まる。
美術館、演劇、都市、地域、
そして宗教などに、
マーケティングの考え方が適用される。
人を惹きつける行為には、
すべてマーケティグの枠組みが役立つ。
昨日の金曜日の連載。
タイトルは「社会問題の解決へ」。
1970年前後、
「ソーシャル・マーケティング」の概念を提起。
心理学者のG・D・ウィーブの問いかけ。
「なぜ石鹸を売るように、
人類愛を売ることができないか」。
コトラーはこの挑戦状に答える。
「ならば、この学問を活用し、
より良き社会に変革が可能なことを証明しよう」
「大量生産、大量消費を促すことは
資源問題あるいは空気や水の品質に
どのような影響を及ぼすのだろうか」
「経済成長になんらかの制限を課すべきだろうか」
1971年に発表された論文が、
「ソーシャル・マーケティング
計画的社会変化の手法」。
「企業の側からの分析とは一線を画し、
社会的な動機からその目的を
最大限に達成しようとする考え方」
アルファ・カッパ・サイ財団賞を受賞し、
マーケティングの主流の一つとなっていく。
そして今日の連載は、
「供給巡り論争」。
スティーブン・ブラウン。
ポストモダン・マーケティングの権威。
2001年にハーバード・ビジネス・レビューで、
コトラーを挑発する。
「コトラーがマーケティングをつまらなくした」
この批判は、コトラーらの
「デ・マーケティング戦略」を
ターゲットとするものだった。
定義は、
「顧客全体、あるいは特定の顧客層に、
一時的あるいは恒久的に
自制ある消費を訴えるマーケティング行為」
「マーケティング担当者は消費者に
不要なモノまで買わせる手練手管を競い合う」
「マーケティングは供給過多の産物」
こうした状況に対して、
コトラーの問題提起が、
否定語の「デ(De)」を用いたネーミング。
「デ・マーケティング」。
「将来のモノ不足は
現在の余剰と同じくらい問題である」
これが前提。
「デ・マーケティングは
個人の自由か公益かという難しい選択を迫る」
「その効果が発揮されるのは、市民に、
特定のモノやサービスの消費を抑えるべきだ、
という高潔なコンセンサスが存在するときだ」
この論争をコトラーは、
ブラウンの「大きな間違い」と総括する。
ブラウンに対して、答える。
「私たちは放っておけば
浅薄な余興でしかなかったマーケティングに、
科学とシステムを導入した」
するとブラウンの意外な言葉。
「私の主張は30年前のあなたの論文と同じだ」
コトラーは述懐する。
「私のデ・マーケティングによる供給制限を
彼は顧客に焦りを生み出させ、
市場への誘導をもたらすと考えていたのだ」
北京にいたこの3日間も、
私はコトラーを楽しんだ。
そして考えた。
中国にこそ、
ソーシャル・マーケティングは必須だ。
そしてデ・マーケティングも。
糸井重里の『ほぼ日』。
その巻頭言「今日のダーリン」。
『仁義なき戦い』の暴力の世界に思う。
「暴力」という「パワー」を
使う道を選んだ人間は、
その反作用としての「暴力」に
警戒する必要があります。
つまり、こっち側からの暴力には、
あっち側からの暴力が
セットでついてくるというわけで。
おちおちできない、
うかうかしてらんない。
暴力のパワー、
それ以外のあらゆるパワー。
すべて「作用と反作用」の
押し合いへし合いがある。
「ぼくは頭がいい」
「わしは金を持ってるど」
「わたしは美人よ」
「おいらは賢いぜ」‥‥と、
どれもみんな暴力じゃないけれど、
「パワー」です。
その「パワー」に、ただ単に
おとなしくひれ伏している人ばかりじゃぁない。
反対側から、
「ぼくこそ、わたしこそ」という力が、
押し返すようにかかってくるんですよねー。
その通り。
コトラーの学会投票、
ブラウンとの論争。
暴力以外でも、
あらゆる「武器」は
取り扱い注意ですぜ
糸井重里は、多分、
自省を込めて、
「武器の取り扱い注意」を促す。
しかし、何かを訴えるとしたら、
陰でこそこそ言わずに、
論争に臨むくらいの決意は必要だろう。
コトラー先生は、
反論や挑戦状から、
エネルギーを得てきた。
小売サービス業でいえば、
競合店の登場だ。
昨日、イオンの岡田卓也さんが言った。
「規制の中の競争は、
本物の競争ではない」
競争や論争は、
私たちにエネルギーを与えてくれる。
私はそれを信じたい。
では、みなさん、
良い週末を。
〈結城義晴〉