社会人大学院が苦戦する中での知識商人の専門知識と教養
米国メジャーリーグのワールドシリーズ。
サンフランシスコ・ジャイアンツが優勝。
最初の優勝は1905年と古い。
その後、1921年、1922年、1933年、
戦後は1954年の昭和29年に全米ナンバー1。
21世紀に入ってからも3度、
2010年、2012年、そして今年2014年に、
メジャー・チャンピオンになっている。
一昨年には、
サンフランシスコAT&Tパークで、
勝利を決めた。
私はちょうどその時、
ウェスティン・セントフランシスに、
連泊していた。
それにしてもカンザスシティ・ロイヤルズ、
青木宣親は残念だっただろう。
日経新聞の夕刊。
『スポーツと文学(5)』に、
スポーツジャーナリストの玉木正之が、
短歌を引用。
野球好きだった正岡子規の歌。
今やかの三つのベースに人満ちて
そぞろに胸のうちさわぐかな
満塁のチャンスとピンチ、
気分は最高潮。
もう一首、俵万智。
日本を離れて七日
セ・リーグの首位争いが
ひょいと気になる
わかるなぁ。
しかしそのジャパンでも、
日本シリーズ。
阪神タイガースが追い込まれた。
こちらはピンチ。
さて、日経新聞に、
「社会人大学院が苦戦」の記事。
「MBAを取得して、
キャリアアップを狙うビジネスパーソンは
一定数いる」。
しかし大学院の側には、
「定員割れや撤退の動きが目立つ」。
欧米ではMBAのマスター取得は、
昇格要件の一つとされる。
しかし日本企業では、
それはないし、
MBAの評価は低い。
「専門職大学院は2000年代前半に
各大学が競って開設」。
ターゲットは企業で働く実務家。
立教大学のビジネスデザイン研究科も、
まさにその専門職大学院。
この一種のブームの中で、
私も特任教授に就任した。
そして痛切に感じたことは、
社会人を経験したり、
時には経営者の立場にありながら、
MBAで学ぶことの有効性だ。
働いて、学ぶ。
それが一番。
しかし、日本の企業は、
それをあまり評価しない。
2008年のリーマン・ショック以降、
日系企業は人材教育にかける予算を減らす傾向。
そこで企業派遣が大きく落ち込んだ。
立教大学院の場合も、
ほとんどの院生が、
自己負担で学んでいた。
小売流通業からは、
少ないように思えるかもしれないが、
それでも私のゼミには、
イオン、マルエツ、日本マクドナルドの社員、
そごう西武の出身者などがいた。
私の講義を履修した院生の中には、
セブン&アイやファーストリテイリング、
コメリの役職員もいた。
アメリカのコーネル大学では、
リテールからの直接派遣は少なくて、
メーカーが資金を出して、
リテーラーが学ぶ。
エドワード・マクラフリン学長が、
私にそっとつぶやいた。
しかし必ずしも、
専門職大学院である必要はないが、
社会人こそ学んで欲しい。
いや、学び続けなければならない。
上手く商売することや、
売上げ、利益を、
上げることばかりではいけない。
倉本長治は書いている。
「論語や聖書には
商売のことは書かれていない。
しかしその論語や聖書にこそ、
商売にとって一番大切なことが
書かれている」
さらに現代に置き換えると、
マネジメントやマーケティング、
リーダーシップや財務、経営戦略も、
実務に即して学習する。
その際、大事なのは、
一流の教授者から、
一流の内容を、
正しく、学ぶこと。
それは驚くほどの成果をもたらす。
ピーター・ドラッカーは、
『ポスト資本主義社会』に書いている。
「われわれは多様な専門知識に精通した
博学を必要としない」
専門化が進んだ現在、
いまやそんな人間は存在しえない。
「逆に、われわれの知識は
ますます専門化していく」
店頭に立つ者、
産地を巡る者、
商品を製造する者、
売場をつくり、店をつくる者、
サービスに従事する者、
顧客を喜ばせる者、
みなが、それぞれに、
専門化していく。
それこそ知識商人である。
しかし、
「われわれが真に必要とするものは、
多様な専門知識を理解する能力である」
つまり自ら一つの専門家であると同時に、
関連する多様な専門知識を
理解する力が求められる。
そのために学ぶ。
それが知識商人の教養となる。
今日は、常盤勝美さんが来社してくれた。
常盤さんは気象予報士。
そのうえ、専門分野は、
ウェザー・マーチャンダイジング。
常盤さんは、
気象の専門家でありながら、
多様なマーチャンダイジングを
理解する能力を持つ。
だから日本一の、
ウェザー・マーチャンダイザーたり得ている。
ちなみにその常盤さん、
筑波大学大学院で修士号をとっている。
思考に気をつけなさい。
それは言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。
それは行動になるから。
そしてそれは習慣になり、
性格になり、運命になる。
マザー・テレサの言葉。
学ぶということは、
すなわち思考そのものを、
深めることである。
〈結城義晴〉