日野原重明さん、ご逝去。「達成感がエネルギーをくれる」
日野原重明さん、
ご逝去。
105歳。
18日午前6時33分、
呼吸不全にて。
心からご冥福をお祈りします。
聖路加国際病院名誉院長。
最後の一瞬まで現役だった。
頭が下がる。
1911年10月4日、
山口県生まれの明治人。
京都帝国大医学部卒業。
1941年、聖路加国際病院の内科医から、
スタートして、生涯この病院に勤務。
社会人としての本籍地と現住所は、
ずっと変わらなかった。
第二次世界大戦では、
日本帝国海軍軍医少尉。
1951年から米国エモリ―大学に留学。
ここでホリスティック医療を学ぶ。
ホリスティック(Holistic)。
語源はギリシャ語の「ホロス(holos)」で、
「全体性」を意味する。
ここから英語のwhole(全体)や、
heal(癒す)、health(健康)などの、
重要な言葉が派生した。
日野原さんの思想の根幹に、
このホロスがあった。
そしてこのコンセプトが、
長寿のエネルギーとなった。
1954年には民間病院として初めて、
人間ドックを開設した。
「聖路加のドック」はその後、
日本中のモデルとなった。
つまり日本の早期発見・早期予防医療は、
日野原さんのホロスに着想されたものだ。
日野原さんは成人病を、
「生活習慣病」と言い換える提案をした。
これも全体性の発想だと思う。
1970年の「よど号ハイジャック事件」。
日野原さんは乗客として、
この事件に遭遇した。
それが日野原さんの哲学を、
また決定づけた。
「野球で言えば、私の人生は九回だが、
これから一番大事な人生が始まる」
死地を体験した日野原さんの言葉は重い。
2000年には「新老人の会」を発足させた。
75歳以上の高齢者で構成する会。
元気で自立した新しい老人の姿を、
自らモデルとなって描き出した。
私も読んだが、
2001年刊の『生きかた上手』は、
100万部を超えるベストセラーになった。
『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』は、
リンダ・グラットンとアンドリュー・ スコットの著作だが、
これも日野原さんを、
モデルとした節がある。
「ほぼ日」でかつて、
糸井重里と対談した。
「ぼくは夜の1時、2時に寝て、
それで5時に起きるとか、
朝の4時まで起きて、
朝の6時に起きるなんてことが
しょっちゅうです」
私とおんなじ。
「起きた直後なんて忙しいですし、
アー行かなきゃ、
と思ってパーッとやると、
コーヒー牛乳とジュースを
立ち飲みするぐらいだから、
だいたい朝食は
2分ぐらいあればいいぐらいで」
おんなじ。
「何も仕事がなければ
充分に食べたり飲んだりできる。
でも、戦争中はそんなことはできないし、
私の仕事というのは、
まるで戦争中のように忙しいの。
ただ、戦争中と違って、
自分がやりたいようなことを
やっているんだけど」
いいなあ。
「法律でこれ以上働いてはいけない、
というのに従っていたら、ぼくなんか
3日ぐらいで過労死してしまうぐらいよ。
だいたい19時間ぐらい働いてるものね。
しかも、それを1年中やってるんだものね」
すごい。
糸井 「労働」じゃないんですか。
「心の持ち方によって、
ホルモンも免疫力も
変わってくるわけです。
そういうことが、
だんだんわかってきた」
病は気から。
「朝6時ぐらいになると
原稿用紙が25枚ぐらい書けて、
それをまとまって書けたことを、
『あぁ、よかったねぇ』と思うのね」
糸井 うれしいんですね?
「ものすごくうれしいの」
糸井 ある種の達成感があるわけですね。
「達成感、達成感」
そして、
「達成感は
物すごいエネルギーを
くれるの」
数年前に、偶然、
東海道新幹線のグリーン車で、
お見かけした。
本当に小柄なおばあさんのようだった。
さらに小柄でご高齢の女性に、
世話を焼いてもらって、
それでもお元気そうだった。
朝日新聞beの連載。
昨年後半から口述筆記になった。
しかしそれまでは、
原稿用紙に細いペンで書き下ろし、
ゲラにも自筆でチェックを入れた。
そのbeの10周年の記念講演会。
いつも講演でそうするように、
ステージで立ちっぱなしだった。
ステージを右に左に闊歩(かっぽ)。
私も見習いたい。
「不思議だね、年を取ると、
心が子どもの頃に戻るの」
日野原さんのように生きたい。
生涯現役。
しかもライフ・シフトで。
ほんとうにそう思う。
そしてどんな企業も、
日野原さんのようにありたい。
ふたたび、心からご冥福を祈って、
合掌。
〈結城義晴〉