南北朝鮮の「板門店宣言」と「世帯も帳合も時勢を察するも学問也」
歴史的な瞬間。
38度線を挟んで対峙してきた南北朝鮮。
その両首脳が固い握手。
韓国のムン・ジェイン大統領、
北朝鮮のキム・ジョンウン労働党委員長。
共同宣言を発表。
「板門店宣言」
「南北は休戦65年の今年、
終戦を宣言して、
休戦協定を平和協定に転換し、
恒久的な平和体制を構築するために、
南北とアメリカの3者、または、
南北と米中の4者会談の開催を
積極的に推進することになった」
南北、東西に分断されたのは、
ドイツとベトナムと朝鮮。
アイルランドと北アイルランドも、
中国と台湾も分断されている。
ドイツは1989年にベルリンの壁が崩され、
1990年10月に東西の統一が図られた。
ベトナムは1976年4月に、
南北ベトナムが統一され、
その後、1993年2月、フランスと和解、
1995年7月、アメリカと和解。
ここで完全なる統一が実現した。
朝鮮半島の終戦がなって、
平和協定が結ばれ、
恒久的な平和体制を志向する。
そのあとに南北統一が、
待っているのかどうか。
たとえ統一ができたとしても、
南北格差を埋めるためには、
計り知れないほどの経済負担が必要になる。
しかし一触即発の危機感の中で、
南北がいがみ合うという状況に、
一筋の光明が見えた。
キム・ジョンウンの生声を聞いたのは、
初めてのような気がする。
世襲三代目の独裁者としては、
ちょっとくだけた嗄(しゃが)れ声。
朝鮮半島はこれから、
いったいどうなるのか。
キム・ジョンウンの考え方にかかっている。
朝日新聞「折々のことば」
第1092回。
編著者は鷲田清一さん。
「さすが学問の力だねぇ」
〈與那嶺貞(よなみねさだ)の仕事仲間〉
「まるで精緻な刺繍を思わせる読谷山花織」。
「ゆんたんざはなうい」と読む。
「幻の布ともいわれた沖縄のその織物の
復元がようやく叶(かな)った時、
それをやり遂げた與那嶺に、
仲間の一人が涙をこぼしてこう言った」
「精緻を極めた復元の作業を
根っこで支えたのは、幾何学など、
実業学校で身につけた知識だった」
「学問のこういう“尊さ”を、
私たちは久しく忘れ去っていないか」
作家・澤地久枝の『琉球布紀行』にある。
その通りだと思う。
福澤諭吉「学問のすゝめ」
その二編から。
学問とは広き言葉にて、
無形の学問もあり、
有形の学問もあり。
――有形と無形。
いずれにてもみな
知識見聞の領分を広くして、
物事の道理をわきまえ、
人たる者の職分を知ることなり。
――人たる者の職分を知ること。
知識見聞を開くためには、
あるいは人の言を聞き、
あるいはみずから工夫を運(こ)らし、
あるいは書物をも読まざるべからず。
――聞く、考える。読む。
ゆえに学問には
文字を知ること必要なれども、
古来世の人の思うごとく、
ただ文字を読むのみをもって
学問とするは大なる心得違いなり。
文字は学問をするための道具にて、
譬えば家を建つるに
槌・鋸の入用なるがごとし。
槌・鋸は普請に欠くべからざる道具なれども
その道具の名を知るのみにて
家を建つることを知らざる者は
これを大工と言うべからず。
――ドラッカー先生と同じように、
大工をたとえにする。
まさしくこのわけにて、
文字を読むことのみを知りて
物事の道理をわきまえざる者は
これを学者と言うべからず。
――物事の道理をわきまえる。
いわゆる「論語よみの論語しらず」とは
すなわちこれなり。
わが国の『古事記』は暗誦すれども
今日の米の相場を知らざる者は、
これを世帯の学問に暗き男と言うべし。
経書・史類の奥義には達したれども
商売の法を心得て、
正しく取引きをなすこと能(あた)わざる者は
これを帳合いの学問に拙き人と言うべし。
――「商売の法」「正しき取引き」、
そして「帳合いの学問」のすすめ。
数年の辛苦を嘗め、
数百の執行金を費やして
洋学は成業したれども、
なおも一個私立の活計をなし得ざる者は
時勢の学問に疎き人なり。
これらの人物はただこれを
文字の問屋と言うべきのみ。
その功能は飯を食う字引に異ならず。
――「文字の問屋」「飯を食う字引」。
きつい言い方。
国のためには無用の長物、
経済を妨ぐる食客と言うて可なり。
ゆえに世帯も学問なり、
帳合いも学問なり、
時勢を察するもまた学問なり。
なんぞ必ずしも
和漢洋の書を読むのみをもって
学問と言うの理あらんや。
――キム・ジョンウンも、
ムン・ジェインも、
安倍晋三や麻生太郎も、
ドナルド・トランプも。
山口達也も、福田淳一も。
もちろん與那嶺貞も、その仲間も。
藤井聡太も羽生善治も。
あなたも、わたしも。
世帯も学問なり、
帳合も学問なり。
時勢を察するもまた学問なり。
しかし、
知識見聞の領分を広くすること。
物事の道理をわきまえること。
人たる者の職分を知ること。
これこそが学問である。
知識商人の心得である。
〈結城義晴〉