寂しい時・うれしい時・人はノンコモディティを食べたくなる。
9月に入った。
新聞各紙の巻頭コラムが、
今日の「二百十日」を取り上げ、
95年前の関東大震災と、
今日の「防災の日」を強調する。
毎日新聞「余録」がいい。
「日本人はこの日を
つねに不安とともに待つ。
この日は稲の収穫の良し悪しを
決定づける日であり、
しかも大きな台風が通過するときと
一致するからだ」
フランスの詩人クローデルの「二百十日」。
外交官にして駐日大使。
コラムニスト。
「震災の歴史と二百十日とが
交差する防災の日、
考えうる最悪の災害への備えに
思いをめぐらす機会でもある」
昨日も書いたけれど、
最悪を覚悟して、
最善を尽くす。
残念ながらこれしかない。
朝日新聞「折々のことば」第1215回。
寂しくなった時、
うまいもん食べたいと
思うんや。
嬉しい時、
おいしいもん食べよと
思うんや。
だから、人は
食べるために
生きるんや
(料亭「つきぢ田村」三代目 田村隆)
祖父からそう聞かされたと回想する。
「生きるために食うのであれば
何でもいい。
けれども人はものを味わい分ける。
ただ受け入れるのではなく、
よく調べて判断する。
つまり吟味する」
コモディティは、
生きるために食べるもの。
ノンコモディティは、
食べるために生きるもの。
寂しい時、うれしい時に、
人はノンコモディティを、
食べたいと思うんや。
つきぢ田村のおじいちゃんは、
関西人なのだろう。
面白い。
編著者の鷲田清一さん。
「ちなみに、
ホモ・サピエンスというときの
サピオー(知る)も、辞書によれば
原義は”味わう”である」
ただ受け入れるのは、
コモディティだ。
よく調べて判断するもの、
吟味するものが、
ノンコモディティだ。
人はノンコモディティを食べるために、
生きるのだ。
重い言葉である。
今日の土曜日は、
横浜商人舎オフィス。
長い長い原稿を書いて、
アメリカ50州とコロンビア特別区に、
思いをはせる。
それから校正。
これこそ、言葉の吟味。
そのためによく調べて、
判断する。
推敲する。
コモディティの文章が氾濫する。
ネット上、スマホ上、
一部のブログなども。
それも仕方がない。
しかし本や雑誌は、
私のブログは、
ノンコモディティの文章で、
なければいけない。
そう考えている。
一息ついたらコーヒー。
そしてまた吟味、推敲。
全部終わったら、ご苦労様。
明日は66回目の誕生日です。
ありがとう。
〈結城義晴〉