浄土真宗妙福寺/母の納骨と親鸞の言葉「その一人は親鸞なり」
朝日に浮かび上がる横浜。
YOKOHAMA BAY BRIDGE。
そして横浜港とみなとみらい。
羽田空港から2時間のフライトで、
福岡空港。
高速道路をタクシーを飛ばして、
菩提寺の地福山妙福寺。
浄土真宗本願寺派。
本堂。
焼香の準備がされている。
母と父の写真。
7月31日に亡くなった母の納骨。
納骨堂。
母の骨を父の骨の隣に収めた。
境内には親鸞像。
浄土真宗は親鸞によって起こされた。
親鸞は念仏を唱えることを勧める。
善人なおもて往生をとぐ
いわんや悪人をや
最も有名な親鸞の言葉。
善人であっても、
極楽往生することができる。
まして悪人に、
それができないことなど
あるわけがない。
この言葉、間違いではない。
それは次を見ればわかる。
よしあしの
文字をもしらぬ
ひとはみな
まことのこころ
なりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとの
かたちなり
親鸞の考えとスタンスがよく表れている。
「よしあし」のひらがなの文字も
知らないような人がみな
まことの心をもっている。
しかし「善悪」という漢字を
物知り顔するような人こそ
偽りの姿を見せている。
親鸞は大衆を愛した。
心の奥底の真(まこと)を、
重視した。
だから「善人なおもて」であり、
「悪人をや」なのである。
明日ありと
思う心の徒桜(あだざくら)
夜半の嵐の
吹かぬものかは
明日も咲いていると
思っていても、
それはあだ桜であって
夜ふけの嵐が
吹かないという保証はない。
ひとのいのち
みじかくもろし
読んで字のごとし。
我はほどなく
浄土に帰るなり
この世に言いおくこと
一言もなし
坂口安吾の言葉を思い出す。
「ふるさとは語ることなし」
そして父の生き様を思う。
2014年に、横浜市民病院に入院して、
大腸癌が見つかった。
手術か放射線治療をするかどうか。
判断を迫られた時に、
父は即座に自分自身で決断した。
「十分に生きた。
もうやり残したことはない。
この世に未練はない」
母は静かに納得した。
最後に親鸞の「御臨末の書」。
一人居て喜ばは
二人と思うべし、
二人居て喜ばは
三人と思うべし、
その一人は親鸞なり
一人で喜べないときは、
二人いると思いなさい。
二人いて喜べないときは、
三人いると思いなさい。
そしてその一人は、
私、親鸞であると考えなさい。
親鸞はあたたかい。
合掌。
〈結城義晴〉