9月1日・二百十日の「いま、はじめよう」
9月1日の二百十日。
1923年(大正12年)9月1日11時58分、
関東大震災が起こった。
それから96年。
今や「防災の日」として、
忘れてはならないし、
忘れられてはならない。
今日から始まる9月は「防災月間」だ。
「ほぼ日刊イトイ新聞」
略して「ほぼ日」。
1998年6月6日にスタートして、
現在進行形のウェブサイト。
㈱ほぼ日が2017年3月に、
東証ジャスダックに上場して、
現時点で5640円の株価をつけている。
その巻頭コラムが、
「今日のダーリン」
糸井重里さんが毎日書く。
「ほぼ」と言いながら、
1998年6月6日から毎日、
途切れることなく書き続けられている。
ただし、そのエッセイは、
今日の分だけしか掲載されず、
消去されてしまう。
だから毎日読まなければならない。
それでもいつのころからか、
「昨日の”今日のダーリン”を
読み逃した方はこちら」
とリンクが貼られて、
2日分だけ読めるようになった。
これも一つの考え方で、
読者に対するプレッシャーである。
[結城義晴の毎日更新宣言]は、
資料的な意味もあるので、
「今日のダーリン」のようにはしないけれど
昨日のブログが消えてしまうとなれば、
もっと読んでくれるかなあ。
さて、その昨日の「今日のダーリン」
「はじめること」についての考察。
「はじめなきゃ、
はじまらない。
おもしろいだとか、ノッてきただとか、
そういう快感は、
はじめる前にはありえない。
いやでもなんでも、はじめたら、
なにかがはじまる。
つまり、まずは、
”はじめなきゃなにも”である」
はじめに言葉ありき。
ことばは神とともにあり。
ことばはすなわち神なりき。
〈ヨハネの福音書〉
糸井。
「はじめるためには、どういうときがいいか。
無我夢中ではじめてしまって、
すぐに頭を打って中止ということもあるだろう。
はじめるにはときというものがある。
急いでいいことなど、なにもない」
糸井はこの5行を否定する。
「実は、”よくあるまちがい”である。
これを、先に考えすぎると、
いつまでも走り出せない」
つまり「はじめよ」である。
「いつはじめるかについての、
その”いつ”が、
いまではないとしても、
それでも、いまできることがあるはずだ」
「さらにいえば、
いまできることがなんなのかを、
探りはじめることなら、
いまからはじめられる。
タイミングを見ているという場合でも、
いまできることはちゃんとある」
そしてここが大切なポイントだ。
「”それはなんなのだ?”
ということを考える。
“それがなんになるのだ?”
についても考える」
「まず風呂に入ろうでも、
机の上を整理しようでもない」
「環境を整えて、
そこから気持ちよくはじめる
なんてことは、やっちゃいけない」
これは本当に多い。
私もしょっちゅう、この間違いをする。
「はじめるの、
はじめは、
考えるである」
「歩きながら考えるのなら、
いま歩きだすことだ」
「紙とペンを目の前に置くのは、
とてもいいことだ」
「平気で、まちがったことを、
考えはじめればいい」
ピーター・ドラッカー。
「未来を築くために
はじめになすべきことは
明日何をなすべきかを
決めることではなく、
明日をつくるために今日
何をなすべきかを
決めることである」
糸井重里。
「”いまでしょ!”の”いま”は、
“いまごろ”じゃなく、
ほんとの”いま”だ」
「利口ぶるな、アホのまま、
アホの考えを”いま”、だ」
「どれをはじめるのか、
それだけを選んで、
いま、はじめよう」
糸井さんはこれを、
自分自身に向けて言っている。
「軽くはじめて、
しつこくねばって、
気持ちよく続けよう」
結城義晴の「徹底」の定義。
詳細に、
厳密に、
継続する。
こまかく、
きびしく、
しつこく。
そして結城義晴『Message』「言葉」から。
「言葉で仕事し、
言葉で思索し、
言葉で成長する。
新人諸君、先輩諸氏。
社長も、部長も、店長も。
モノを言わぬ者は去れ。
評論家も、コンサルタントも。
識者も、学者も、編集者も。
考えぬ者は滅びることを知れ」
令和元年の9月が始まる。
いま、はじめよう。
あなたらしく、
私らしく。
〈結城義晴〉