日本電産/永守重信「集団体制は創業以来最大の間違いだった」
立春の一日。
それは それは
空を越えて
やがて やがて
迎えに来る
春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の
なつかしき声がする
松任谷由美。
「春よ、来い」
しかし横浜商人舎オフィスで、
朝から晩まで原稿執筆。
さらに校正と責了の業務。
疲れ切った顔つき。
1977年に大学を出て、
㈱商業界に入社して、
編集者の道に入った。
以来、流通ジャーナリストの看板は、
一瞬たりとも下ろしていない。
編集者、執筆者のスタンスも崩さない。
会社の経営者の立場は続けているし、
大学院の教員になったり、
産業内大学や企業内大学を興したり、
海外視察のコーディネーターをやったり、
コンサルティングをしたりと、
自分でもよくわからない仕事をしてきた。
高校1年のころ、
「蘖(ひこばえ)」という文学同人誌に参加して、
稚拙な文章など書いていた。
藤圭子ではないが、
「15、16、17と、
私の人生暗かった」
大学に入ったら、
北原白秋や野口雨情の世界に染まって、
詩を書いたり、創作童謡をつくったり。
作詞作曲もずいぶんやった。
バンドをつくって、
ベースを担当した。
これも稚拙なミュージシャンだった。
社会人となって、
これまた最初は稚拙な「編集記者」。
以来、43年、モノを考え、モノを書く、
それをずっと続けてきた。
2002年に㈱商業界の専務取締役になり、
翌2003年には代表取締役社長に就任した。
そして2007年に退任した。
この間は編集業務から離れて、
企業経営に邁進した。
直接、編集にタッチはしなかったけれど、
それでも販売革新誌に、
Publisher’s Voiceなど書いていた。
代表取締役社長を辞してから、
自分の会社をつくって、
2013年から再び、
月刊商人舎を始めた。
その82冊目の2020年2月号を責了した。
1冊ずつが1特集。
まるで毎月、単行本を1冊、
書いたり編集したりする気分。
82冊目は、いいですよ。
さて、日本電産㈱。
永守重信さんは、
心から尊敬する経営者だ。
現在、同社会長兼最高経営責任者(CEO)。
京都に本拠を置く会社として、
実にユニークな経営をしている。
その永守信条は、
すぐやる、
必ずやる、
できるまでやる。
今日、京都で記者会見。
日産自動車の関潤元副最高執行責任者を、
4月1日付で日本電産の社長兼COOにする。
現在の吉本浩之社長は副社長に就く。
その理由が振るっている。
「異動の理由」
「2030年売上高10兆円の達成に向けて、
経営体制の一層の強化充実を図ります」
日本電産は2018年度連結決算で、
売上高1兆4754億円、営業利益1305億円。
営業利益率8.8%の優良企業だ。
しかし10年後には10兆円を目指す。
関さんは19年12月1日に、
日産自動車の副COOに就任。
内田誠社長兼CEO、
アシュワニ・グプタCOOに次ぐ、
ナンバー3だったが、
昨年12月に退任して、
日本電産の特別顧問に就任していた。
記者会見の発言が日経新聞に掲載された。
永守さんが会長になったあと、
日本電産は「集団指導体制」を志向した。
これに対して、
永守さんのコメントがストレートだ。
「(集団指導体制は)呼び名はいいが、
強いリーダーがいないとだめ。
5、6人で決めていたのではだめだ」
実に教訓的だ。
イオンの岡田元也さんにも、
ファーストリテイリングの柳井正さんにも、
セブン&アイの井阪隆一さんにも、
響く言葉だろう。
「中国との戦いがあり、
時間がかかってはいけない。
集団体制に移行しようとしたが、
それは創業以来の最大の間違いだった」
集団指導体制への移行は、
創業以来最大の間違いだった!
オウ!!
「吉本社長は非常に頑張り屋。
まさに日本電産の
ハードワークに適している。
ただ、ものづくりに弱かった。
吉本氏も能力はあるから
4、5年してトップに再
チャレンジしてほしい」
「敗者復活」の可能性を宣言した。
関さんに関しては、
「しつこくほしい人材を探していた。
おそらく関さんが(日産の)社長になる
と見ていたが、違う人になった。
そこで猛攻撃をかけた」
「10兆円企業を作りたいと、強く言った。
絶好のチャンスだった」
対して関さん。
「だまされたつもりで来いといわれ、
だまされて、きた」
「企業の持続性は成長だ。
その信条だった私に
“10兆円を一緒にやろう”
と言ってくれた。
これにクラクラときた。
やれると思っている」
持続するには、
成長しなければならない。
これらの発言。
産業界、流通業界に、
影響を与えると思う。
43年間、
ジャーナリストをやってきた、
結城義晴の「勘と予測」です。
〈結城義晴〉