隈研吾「ポストコロナの公共空間」と商業の店づくり
全国知事会。
「ロックダウン的」な措置を、
政府に求めることにした。
オンラインで開催されたのは、
新型コロナウイルス対策本部の会合。
知事会は国への緊急提言案を示した。
知事会が指摘したことは、
デルタ株に対しては、
「緊急事態宣言では、
効果を見いだせないことが明白」
したがって、
「人の流れを抑える時限的な措置として、
ロックダウンのような方策の検討」を要求。
どうなることか。
ロックダウンは都市封鎖。
それは日本には合わないという議論もある。
今こそやらねばならないという意見もある。
ただし「的」だとか「のような」とは、
いったいどんなことか。
いい知恵があれば、それを出してもらいたい。
政府が知事会を、
冷ややかに見ているかどうかも、
わかってくる。
どうなることか。
私にはわからない。
「緊急事態宣言では、
効果を見いだせない」
これは同感だ。
今日は午後から東京駅。
その前にそびえる丸ビルと新丸ビル。
東京駅構内のステーションギャラリーで、
藤戸竹喜の展覧会が開かれていた。
「木彫り熊の申し子」と言われる彫刻家。
それから大手町プレイスタワーへ。
大手町プレイス内科。
田嶼尚子先生が私の主治医。
毎月の血液検査と診察は、
私にとって必須のことだ。
今日はちょっとだけ悪い結果がでた。
さらなる食事の改善と運動の指令が出た。
私は偏食は全くしないし、
なんでもよく食べ、よく飲む。
しかし最近はなぜか、
肉が食べたくなる。
その結果が体に現れたのだと思う。
1カ月、節制します。
一昨日の朝日新聞「経済気象台」
タイトルは、
「ポストコロナの公共空間」
「コロナ禍の長期化に伴う
人流抑制の対策は、
対面形式の商売には
死活問題である」
「感染への不安をぬぐえない限り、
街中が以前のにぎわいを取り戻すのは
難しい」
そこで一方では、
「そもそも人が集まる場所は
どう設計されるべきかを
考え直す好機でもある」
店舗もショッピングセンターも、
人が集まる場所であり、
同じことが当てはまる。
東京国立近代美術館「隈研吾展」
2021年6月18日から9月26日まで開催中。
隈研吾の建築には、
「アオーレ長岡」(新潟県長岡市)をはじめ、
複合施設が多い。
もちろん東京五輪の国立競技場も、
隈さんが設計に参画した。
「文化施設、行政サービス、
商業施設などを一つ屋根の下に収め、
多様な目的の人々が集まる公共空間を
街づくりに生かす発想は魅力的だ」
「人流を交流へと変換するような、
居心地の良い共用のリビングルーム」
人流を交流に変換する。
店にはそれが求められる。
隈研吾が生み出す空間は、
“斜め”のコンセプトにこだわる。
独創的だ。
「TOYAMAキラリ」
富山県富山市西町にある。
富山市立図書館本館、
富山市ガラス美術館、
富山第一銀行本店などが入居。
2015年8月22日に全館オープン。
一度、訪れてみたい物件だ。
「吹き抜けが垂直ではなく
斜めに設計されており、
エスカレーターからは
違う階の様子がよく見える」
「フロアを壁の中に
閉じ込めるのではなく、
屋内でありながら視線の先が
次々に開けていく仕掛けは、
あそこに何があるのだろう
という興味をそそる」
コラムニストは絶賛する。
「隈氏の建築には
屋内に取り込まれた橋のような
味わいを感じる」
「橋は視界を遮る壁を持たず、
周囲を見渡せる場所であると同時に、
異なる領域をつなぐ装置でもある」
部門と部門を「橋」でつなぐ。
そんな店や商業施設があってほしい。
「別の世界を可視化しつつ、
そこへ誘導してくれる
橋のような複合施設は、
集まってきた多様な人々の垣根を払い、
文化活動・経済活動を活性化するには、
格好の舞台となろう」
COVID-19パンデミック。
そのなかから違うものが生まれてくる。
「ステイホーム慣れした社会が
新たに必要としているのは、
人々がつながる
公共空間ではなかろうか」
コラムを読んだだけで、
何か期待をもった。
高校生のころだったか、
ゲーリー・クーパー主演の映画、
「摩天楼」に魅了された。
建築のイノベーションを求める、
若い建築家。
建物には何か、
思想がこもっていなければならない。
まだ国立競技場にも、
アオーレ長岡にも、
TOYAMAキラリにも、
行っていないが、
コロナ禍のなかから、
何かが生まれつつある。
隈研吾作品も昨年、今年と、
コロナのなかで、
次々にオープンしている。
たとえば、
角川武蔵野ミュージアム武蔵野坐令和神社。
小売業がつくるのは、
それほど金をかけた、
贅沢な店である必要はない。
隈研吾さんに頼むと、
途方もない投資となるだろう。
しかし隈研吾の思想は取り入れたい。
人々がつながる公共空間。
隈研吾さんは、
猫が好きなのもいいなぁ。
〈結城義晴〉