倉本長治「実行第一」とドラッカー”Practice comes first!”
日曜日の午後には、
倉本長治を紐解く。
それが明日からの1週間、
私のエネルギーとなる。
商業界の創業者。
「日本人名大辞典+Plus」の紹介では、
「昭和時代の経営評論家」
ああ、一般から見れば、
長治先生は経営評論家なのか。
「昭和の石田梅岩」と呼ばれたのに。
「明治32年(1988年)12月14日生まれ。
山下汽船教習所にまなび、
東京商業会議所をへて、
雑誌『商店界』編集長となる」
28歳のときに㈱誠文堂新光社から、
Editor in Chiefとして、
スカウトされた。
東京商業会議所のころは、
ただ一人、アメリカの流通雑誌など、
読んでは、訳して、
専門誌や新聞などに文章を書いていた。
「戦後、『商業界』の主幹となり、
アメリカ式経営法の導入や商道を説いた」
『商業界』だけでなく、
『販売革新』や『食品商業』などを創刊し、
チェーンストア経営の軌道を敷いた。
「昭和57年(1982年)1月29日死去。
82歳」
このとき私は㈱商業界入社5年目で、
販売革新編集部に属していた。
「編集部員」とではなく、
「編集記者」と名刺に入れていた。
それから商業界労働組合の委員長だった。
望んでその役に就いたわけではなくて、
先輩の活動家たちから目をつけられて、
悪い意味ではなく嵌(は)められる形で、
委員長に選出された。
そのため長治主幹の社葬のときには、
社員代表として弔辞を読んだ。
そういう決まりだった。
長治先生との触れ合いは、
5年間だったし、
直接、指導を受けることも少なかったが、
その偉大なる存在感は日々、
社内に緊張を与えていた。
その倉本長治の「88のことば」
『あきないの心』
「15 実行第一」
「商いには経験だけではなく、
勉強が必要だということを、
今日では否定する人はいない」
商人舎のすべて単行本の最終ページ。
「知識商人に寄す」という一文。
もちろん、結城義晴が書いた。
「商人に学問は必要ない、と言われた。
商人に難しい理論や論理は無用である、
とも喧伝された。
しかし”商人の技術”は客観化されて、
高等学校に商業科が誕生した。
最高学府においては、
その”商人の学問”が確立されて、
大学や大学院に商学部が生まれた。
商売のためのマーケティングが誕生し、
マネジメントが構築され、
イノベーションが追究された」
これは長治の「勉強が必要」を、
ちょっとだけお手本にしている。
長治。
「一人の人間の経験だけでは、
到底追いつけないほど
テンポが速く、変化が多いからだ」
「人の経験を、わが経験にすれば、
無用な努力や試行錯誤が避けられ、
みちくさを食わなくてすむ」
人の経験をわが経験にする。
「先輩にも聴き、
そこで原理原則にのっとって、
その上でわが店に必要な、
わが店独自の組織をつくり、
動かしていくべきだ」
「つまり、
目的を実現するためには、
“知る”だけではなく、
それを”実行”しなければならないのである」
商人舎の「知識商人に寄す」の最後。
「読む、知る、考える、行う。
検証する。再び実行する。
顧客のために。
再び、読む、知る、考える、行う。
顧客のために。
それが知識商人の尊い態度である」
倉本長治。
「勉強や研究や情報は必要だが、
何を学び何を知っているかが大切なのではなく、
何を為したかが大事なのである」
そう、何を為したか、
どう行ったか。
「”知ったことはやったことにはならぬ”
と私はいつも言う」
「知って、正しい、善いと信じたら、
果敢にやり抜くこと、
それが本当に学ぶ(真似ぶ)ことである」
果敢にやり抜いてこそ、
本当に学ぶことになる。
長治は「真似ぶ」と表現する。
「まなぶ」の語源は「まねる」である。
長治。
「清らかな行為は、
美しい言葉よりも効果がある」
清らかな行為――
私の好きなフレーズだ。
「いかに人をよく語ったかではなく、
いかによく生きたかが大切なのである」
「”不言実行””学ぶに如かず”とも言う。
しかし”実行第一”なのだ」
ピーター・ドラッカーは言った。
“Practice comes first!”
これこそ「実行第一」だが、
私は「実践躬行」と訳して使っている。
「躬行」は「きゅうこう」と読んで、
自ら実行すること。
長治とドラッカー。
どこまで似ているのか。
驚かされる。
そしてそれがまた、
私の1週間のエネルギーとなる。
感謝。
〈結城義晴〉