23歳の司馬遼太郎「おろかな国」と平野歩夢「小さいころの夢」
建国記念の日。
古事記や日本書紀に記されているが、
初代天皇の神武天皇が即位した日。
神話の世界のことだ。
その日が明治政府によって、
「紀元節」と定められた。
さらに太平洋戦争の敗戦から21年を経て、
1966年に「建国記念の日」として、
国民の祝日となった。
私が生まれた1952年には、
建国記念の日はなかった。
司馬遼太郎の『この国のかたち』
その四のなかに「81 別国」なる章がある。
「昭和五、六年ごろから敗戦までの
十数年間の”日本”は別国の観があり、
自国を滅ぼしたばかりか、
他国にも迷惑をかけた」
司馬遼太郎はそう考えていた。
「わたしは、二十歳のとき、
凄惨な戦況の中で敗戦を迎えた」
司馬は1943年、学徒出陣で従軍。
44年には満州の戦車第1連隊に配属され、
翌45年には本土防衛のため、
第12方面軍の戦車隊付小隊長として、
栃木県佐野市にいた。
そこで敗戦を迎えた。
「おろかな国に生まれたものだ、
とおもった」
司馬は述懐している。
このとき実は、
23歳だった。
「昭和初年から十数年、
みずからを虎のように思い、
愛国を咆哮(ほうこう)し、
足元を掘り崩して亡国の結果をみた」
建国記念の日には、
なぜか『この国のかたち』に手が行く。
そしてぱらぱらと頁をめくって、
目についたところを読んだりする。
しかし新聞もテレビも、
北京の冬季五輪一色。
それも悪いとは言えないが、
「おろかな国」の青年だった世代から、
77年を経て3世代ほど移り変わって、
平野歩夢が出てきた。
いま、23歳。
スノーボード男子ハーフパイプ決勝。
1本目のランは転倒。
続く2本目は「トリプルコーク1440」を決めた。
フィギアスケートで羽生結弦が挑戦した、
「クワッドアクセル」のようなレベルの技で、
それを完璧に成功させて滑り切った。
「圧巻のラン」
しかしこの得点は審査員に評価されず、
91.75点の暫定2位。
アメリカの審査員は89点、
スイスの審査員は90点。
米国人レポーターはSNSでつぶやいた。
「これは完全に茶番だ」
審査員は恥を知れ。バカバカしい」
しかし平野歩夢は、
3本目のランで96.00点をマーク。
いざというときに、
自分の力をすべて発揮する。
人間の真価。
それを平野歩夢は見せてくれた。
これまでソチ五輪、平昌五輪では、
銀メダルに甘んじていた。
金メダルはどちらも、
この種目の開拓者ショーン・ホワイトが奪取。
歩夢は子どものころから、
ホワイトに憧れていた。
そのホワイトはこの大会で引退する。
そして今回は4位に終わった。
平野歩夢のコメント。
「ようやく小さいころの夢がひとつ叶った」
少年のような素朴な思い。
しかし達人のクールさをもつ。
「今日はずっとやってきたことが
すべて出し切れた」
尊敬するホワイトにもメッセージ。
「相変わらずチャレンジし続けていて、
この出ているなかでも最年長」
「僕にはまだ経験できないことを
いつも見せてくれているなと
刺激的になったし、
彼にとってもかなり大きいチャレンジ
だったんじゃないかなと思う」
最後は周りの人たちへ。
「家族だったり、身近にいる人たち、
そして応援してくれる人たちが
あっての自分だと思う」
謙虚だ。
「自分の納得いく滑りというのが
みんなに少しでも
届いたんじゃないかと思う。
なにか刺激になってもらえれば、
それ以上はない」
司馬遼太郎が、
23歳の小隊長のときに思った、
「おろかな国」。
しかし平野歩夢は、
その国の建国記念の日に、
「小さいころの夢」を叶えた。
私たちの国はいい国だ。
〈結城義晴〉