那珂太郎「鎮魂歌」の「何かを始めるには」
ウクライナの人たちには、
曜日はなくなっているのだろう。
ゼレンスキー大統領。
3月7日の月曜日にビデオ投稿。
「私は大統領府にいる」
そして、
「月曜日は”ヘビーな日”だが、
戦争中の今は、
毎日が月曜日のようだ」
ロシア民謡「一週間」は、
日曜日から始まる。
♫日曜日に市場へでかけ
糸と麻を買ってきた
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャ テュリャ テュリャリャ
テュリャ テュリャ テュリャ
テュリャリャ
月曜日におふろをたいて
火曜日はおふろにはいり
水曜日にともだちが来て
木曜日は送っていった
金曜日は糸まきもせず
土曜日はおしゃべりばかり
ともだちよ これが私の
一週間の 仕事です♬
ウクライナの民もロシアの民も、
こんな一週間を過ごしたいのだろう。
私も同じだ。
闘いなどしたくはない。
那珂太郎(なか たろう)詩集。
鎮魂歌
日日
午后三時――
何かを始めるには遅すぎる
または早すぎる時刻
とは半世紀昔の
実存主義作家の文句だけれど
私にとつてそれは日に日に
郵便物が配達されてくる時刻
ときに親戚の娘の結婚式の案内状が舞ひ込み
ときにもうこの世にはゐない友人から
〈すてきな人生〉といふ本が送られてきたり
〈すてきな人生〉なんて
何と楽天的な、
と感心して頁(ペエジ)をめくると
〈みんな、のんきな顔をしているけれど
いずれ地球は、ひびだらけになり
ヒトは消えてしまうのを
とっくに心得ているのだ〉
なんて書かれてる
〈滅びない星なんて、ありはしない〉
これはこの世におさらばする寸前のかれの
ささやかなさりげない憂鬱なユウモア
彼は去年の暮にお骨(こつ)となって
わが家から歩いて十数分の処に葬られたのだ
ときにかれの処まで散歩がてら訊ねてゆく
生きてる間は遠く離れて住んでゐたのに
好きな碁を打つわけにもいかぬお骨となつて
こんな近所に引越してくるなんて
いくさのさなかの半世紀昔
二十歳のぼくらは
七十歳の老人よりはるかに
〈死〉の至近距離にあつた
いま七十歳は二十歳より
確実に〈死〉に近いか
いやタルコフスキイの父親の文句をもぢれば
すべての人は不死すべての物は不滅
十七歳でも七十歳でも
〈死〉からはかぎりなく遠い
午后三時でも 七十歳でも
さう、何かを始めるのに
遅すぎることも
早すぎることもありはしない
けふ一日(ひとひ)の心やりのために
数行の言葉を列(つら)ね
三十年後のために苗木を植ゑて水をかけ
あすは親戚の娘の結婚式に出かけるとしよう
*〈すてきな人生〉は北村太郎遺稿詩集
那珂太郎は1922年(大正11年)、
福岡に生まれる。
1943年、東京大学文学部国文科卒業。
海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。
終戦まで海軍兵学校国語科教官。
戦後、都立の高校、玉川大学等で教鞭をとる。
いま、ウクライナの二十歳は、
七十歳の老人よりはるかに、
〈死〉の至近距離にあるか。
日本の戦時と同じだ。
那珂太郎の言うタルコフスキイは、
アンドレイ・タルコフスキイ。
「映像の詩人」と呼ばれた旧ソ連の映画監督。
深い精神性を探求し、
晩年にかけては、
人類の救済をテーマとした作品を、
自ら制作、監督した。
表現の自由を求めてソ連から亡命し、
故郷に還ることなく、パリで客死。
54歳だった。
そのタルコフスキイの父親は、
著名なウクライナの詩人、
アルセニイ・タルコフスキイ。
その言葉が、
「すべての人は不死
すべての物は不滅」
だとすれば、
十七歳でも七十歳でも、
〈死〉からはかぎりなく遠い。
ウクライナの若者は今、
父タルコフスキイの詩を口ずさみながら、
闘っているのかもしれない。
そして私たちは、
午后三時でも、七十歳でも、
何かを始めるのに、
遅すぎることも、
早すぎることもありはしない。
〈結城義晴〉