サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」について
猛暑が続く。
昨日はその猛暑の中で、
ゴルフをした。
今日は家から一歩も出ずに、
静養した。
日中、外は暑い。
内はエアコンで涼しい。
ランチはパスタで、
一杯だけワインを飲む。
そして午睡する。
夕方になると、
日中の暑さが残ったまま、
少し涼しい風が吹いてくる。
中学・高校生のころの、
夏休みの1日。
あれを思い出して、
ゆったりした気分になった。
疲れたら、休む。
休んだら、動く。
そして疲れたら、休む。
人間の一生は、
この繰り返しだ。
しかし、
「人間は自由の刑に処せられている」
ジャン=ポール・サルトル。
「人間は自由である。
人間は自由そのものである。
もし……神が存在しないとすれば、
われわれは自分の行いを正当化する、
価値や命令を眼前に見出すことはできない。
……われわれは逃げ口上もなく孤独である。
そのことを私は、
人間は自由の刑に処せられている
と表現したい」
(『実存主義とは何か』伊吹武彦訳)
サルトルは考えた。
神はいるのか、いないのか。
無から一切の万物を創造した神が、
存在するならば、
あらゆるものは現実に存在する前に、
神によって本質を決定されている。
これを「本質が存在に先だつ」と言う。
有神論である。
しかしもし神がいないとしたらどうなるか。
あらゆるものはその本質を、
神によって決定されずに、
現実に存在してしまうことになる。
これを「実存が本質に先だつ」と言う。
そしてサルトルはこれが、
人間のおかれている根本的な状況である、
と主張した。
人間はあらかじめ本質を持っていない。
だから人間とは、
彼が自ら創りあげるものに他ならない。
人間は自分の本質を、
自ら創りあげることを義務づけられている。
その意味で人間は自由である。
しかし自由である分、
自分自身に全責任が跳ね返ってくる。
だから人間は、
「自由の刑に処せられている」
逃げ口上も言い訳も意味はない。
サルトルはフランスの哲学者。
1905年6月21日生まれで、
1980年4月15日没。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、
籍を入れない妻だった。
二人は慣習からも自由だった。
サルトルは3歳のときに、
右目を失明して、強度の斜視となった。
1973年、68歳で残った左目を失明した。
それまで左目で読み書きをしていた。
それでも自由を求めた。
自由の刑に処されつつ。
晩年は口述筆記などをして、
ものを考え、ものを書き続けた。
商売も仕事も、
自由である。
人に制約されることなく、
神にも決定づけられず、
自分で決めることができる。
しかし自由の刑に処せられている。
私はときどき、
「商売の神様」を持ち出すけれど、
それはあらゆるものを決定する神ではない。
追認してくれる神である。
その意味で有神論の神に対しては、
サルトルに同意している。
自分がやってきたことを、
正当化する必要はない。
誰も「正当化せよ」と命じているわけではない。
しかし私たちは孤独である。
商売や仕事には逃げ口上も利かない。
結果が示されるだけである。
自分自身に跳ね返ってくるだけである。
それが「自由の刑」である。
喜ばしき「自由の刑」である。
〈結城義晴〉