ヒロシマの日の斎藤佑樹の「始球」と大江健三郎の「ノート」
八月や六日九日十五日
詠み人知らず。
6日の広島原爆の日。
9日の長崎原爆の日。
そして15日の終戦の日。
その8月6日。
ヒロシマの日。
中国は台湾海峡を封鎖している。
ロシアは依然として、
ウクライナへの侵攻を続けている。
こちらは核兵器の使用をちらつかせながら。
そのロシア大統領。
ウラジーミル・プーチン。
8月に入ってから声明を発表した。
「核戦争に勝者はおらず、
決して戦ってはならない」
何を、ぬかす?!
8月1日、
核拡散防止条約再検討会議が、
ニューヨークの国連本部で開幕した。
正式名称は「核兵器の不拡散に関する条約」。
Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons。
略してNPT。
この条約の主たる目的は、
核兵器保有国の増加を防ぐこと、
核兵器の拡散を防ぐこと。
今回の会議の焦点は、
「核の脅威」をいかに減らすか。
ロシアが核兵器使用を脅しに使った。
だから急に脅威が現実味を帯びてきた。
核軍縮は停滞している。
非核保有国の不信は高まっている。
核保有国間でも分断が深まっている。
この条約には、
世界の191カ国・地域が加盟している。
日本政府は、
核保有国と非保有国の、
「橋渡し役」を自任している。
そして広島出身の岸田文雄首相が、
初めてこのNPTに参加して、スピーチし、
「ヒロシマ・アクション・プラン」を発表した。
国際的な運動連合体の、
「核兵器廃絶国際キャンペーン」。
略称ICAN。
International Campaign to Abolish Nuclear Weapons。
2017年にICANはノーベル平和賞を受賞。
そのベアトリス・フィン事務局長は、
岸田文雄首相の演説が、
核兵器禁止条約にふれなかったことを、
「被爆者に無礼」と批判した。
〈長崎大学核兵器廃絶センターフォトギャラリーより〉
「ヒロシマ・アクション・プラン」の命名も、
「被爆者が望む条約批准を含まない計画に
広島の名を使った」と疑問視した。
「演説は日本人の核軍縮への強い意志を
もっと反映させるべきだった」
岸田首相の立場もわからないではない。
アメリカとの安全保障条約なしに、
日本の国を守る道はない。
しかし中国はそこを突いてくる。
ロシアも批判する。
アメリカが、
日本に、
原爆を、
落としたのだ、と。
自分たちは今、
それを脅しに使っている。
残念なことに、
ヒロシマとナガサキが、
希薄になろうとしている。
それは人類にとって不幸なことだ。
新たなヒロシマとナガサキが、
再び起こってはいけない。
私の母は、
広島県の西条に生まれた。
終戦の時、19歳だった。
西条は広島県の北部の町で、
だから被爆はしなかった。
小売業は平和産業である。
それは小売産業で働く人たちが、
ヒロシマ、ナガサキを、
忘れないことでもある。
一方、夏の甲子園が始まった。
第104回高校野球選手権大会。
1942年から1945年までの3年間。
この大会は中断された。
太平洋戦争のためだ。
そして79年後の2020年、
新型コロナ禍で三度目の中止となった。
一度目は1918年の第4回大会だった。
このときは米騒動の影響で、
出場校が出揃ったにもかかわらず、
中止となった。
この米騒動も、第一次世界大戦の影響だ。
戦争景気でコメの消費量が増大する一方、
都市部への人口移動が顕著になり、
それによってコメの生産量は減った。
さらに戦争でコメの輸入も激減して、
全国各地で騒動が起こった。
戦争や災害が高校野球を中止させる。
それでも今年は、
感染防止措置を万全にしたうえで開催。
始球式に登場したのは、
ハンカチ王子こと斎藤佑樹。
インコースに、
ストライクの直球を投げ込んで、
キャッチャーと握手。
2006年の第88回大会で、
斎藤の早稲田実業は決勝に進み、
駒大苫小牧のエース田中将大と対戦。
投手戦は延長15回でも決着がつかず、
引き分け再試合となった。
斎藤は翌日のゲームで先発を志願した。
4連投にもかかわらず、
優勝を勝ち取った。
この大会で斎藤の投球回69、
投球数948は、
史上最多。
斎藤佑樹の始球のフォームを見ていて、
彼は甲子園で燃え尽きたのだと感じた。
野球は小売業とともに、
平和を象徴する。
不思議な感覚だ。
日本の兵庫県の甲子園では、
若者たちの野球の祭典が開催され、
そこから1800キロしか、
離れていない台湾の人々は、
軍事演習とはいえ、
中国軍の砲弾に怯えている。
『ヒロシマ・ノート』のなかに、
大江健三郎は書いている。
「ヒロシマを生き延びつづけている
われわれ日本人の名において、
中国をふくむ、現在と将来の
核兵器保有国すべてに、
否定的シムボルとしての、
広島の原爆を提示する態度、
すなわち原爆後二十年の新しい日本人の
ナショナリズムの態度の確立を、
緊急に必要とさせるものであろう」
このノンフィクションは、
1965年に刊行された。
それから57年が経過した。
ヒロシマが、
核兵器への「否定的シムボル」であることは、
変わっていないが、
日本人のナショナリズムの態度は、
確立されたのだろうか。
〈結城義晴〉