「人生とは飽きとの戦いなのだ」と脱「やらされ感」
ほぼ日の糸井重里のエッセイ。
「今日のダーリン」
10月4日の「飽き」についての考察。
「いろんなことを、
飽きもせずにやっている」
「ぼくは、実は、
もともととても飽きっぽい」
私も実は飽きっぽい。
周辺からは「三日坊主」だとか、
「三週間坊主」などと言われる。
自分では「三カ月坊主」くらいに思っている。
糸井さん。
「たいていのことは
飽きるのがわかっているし、
飽きないためには
どうしようかばかり考えている」
「だから、やっと飽きないでやれている。
他の人だって、たぶんそうなんだと思う」
「人生は飽きとの戦いだ」
同感だ。
「飽きているのに
やり続けることはつらい。
しかし、飽きはじめてからこそ
身につくこともある」
これにも同感。
「まったく変化がないことに、
人は耐えられないだろう」
「だから飽きているところで、
変化を見つけたりもする。
飽きそうになったとき、
新しい問題を探し出す。
いままでよりも、
難しいことをやってみたくなる」
「難しさに対面することで、
飽きから解放してもらえる。
やったことのない難しい問題は、
つらいことも多いけど、
飽きからは救われたりする」
「人生はつらさとの戦いよりも、
どうやらやっぱり
飽きとの戦いだ、と思う」
子どものころから、
結構、何でもできた。
いや、何でもすぐに、
一定のところまでは、
できるようになった。
しかし、そのあとが続かない。
バイオリンも習った。
習字や絵も習った。
野球もサッカーもバスケットボールも、
仲間内ではうまいほうだった。
勉強も。
だから子どものころからの、
昔の友達に会うと、
「お前は何でもできた」と言われたりする。
自分ではそうでもなくて、
すぐに限界が見えていたのだと思う。
だから飽きやすくなったのかもしれない。
糸井。
「人は小さな子どものころから、ずうっと、
“できるようになりたい、
わからないから知りたい”
ということと付き合ってきている」
「それはもう
子どもにとっての遊びそのものだ。
だけど、これって
大人になっても同じじゃないか」
お孫さんができてから、
糸井さんは子どもから着想することが多い。
「飽きかけているときには、
“できるようになりたい、
わからないから知りたい”が、
どこかに蒸発しかけているような気がする」
そう、そう。
大人になってから始めたゴルフなんか、
難しいことだらけで、
「できるようになりたい」が実に多い。
だから飽きずに続けている。
糸井さん。
「子どもたちが遊んでいるように、
大人たちだって、
毎日の遊びや生活のなかに、
仕事や計画のなかに、
“できるようになりたい、
わからないから知りたい”
があるものなんだと思うよ」
私の場合、
仕事に関しては、
「飽き」はこなかった気がする。
「飽き」との戦いを、
必死でやってきたのだろう。
今はもう、あまり思い出せない。
しかし勉強には、
確かに「やらされ感」があった。
仕事にはそれがなかった。
だから私にとって、
「仕事」は尊いものだ。
糸井。
「じぶん自身が、
飽きとの戦いをずっとやってきて思う。
すべてに飽きたら、
死んじゃうってことだもんねー」
これを「厭世」(えんせい)という。
糸井。
「締めにもう一度言っておこう。
人生は飽きとの戦いだ、と」
若い人たちで、
仕事に飽きを感じたら、
「できるようになりたい」、
「わからないから知りたい」を、
思い出すことだ。
もう一つは、
ライバルをつくることだ。
「あいつには負けない」
「あの連中には負けない」
「あの店には負けない」
「あの会社には負けない」
これが「飽き」との戦いには、
効果があると思う。
ここで私もお決まりの締め。
「商い」は「飽きない」である。
商売には、
「お客さんを喜ばせるようになりたい」、
「もっといいやり方を知りたい」、
「あの店には負けない」がある。
だから「商い」は「飽きない」なのだ。
仕事も「飽きない」なのだ。
糸井さんも結城義晴も、
飽きもせず毎日、
今日のダーリンや毎日更新宣言を書いている。
飽きっぽい二人が、
「飽きない」ことを書く。
そこで一番大事なのは、
「やらされ感」から脱することだ。
大人になって、
自分で稼ぐようになったからこそ、
「飽きない」ようになった。
仕事でも、
「やらされ感」があったら、
「飽き」がくる。
自分で決めた、自分の仕事。
それが「飽き」とは、
無縁の時間をもたらしてくれる。
しかしそんな仕事でもある程度になると、
やっぱり「飽き」がやってくる。
だから人生は飽きとの戦いなのだ。
〈結城義晴〉