「死と生は一本の線でつながっている」
3・11。
あれからもう13年が過ぎる。
今年の新年には、
能登半島地震が起こった。
その救済もできてはいない。
人々から集めている税金は、
こんなことにこそ、
素早く効果的に使ってほしい。
政党助成金のために、
税金を払っているのではない。
それにしても、
人間の命が軽くなっている。
いや、人間の命を軽く扱うことは、
ずっと続けられてきた。
それが1000年前も100年前も今も、
あまり変わっていないのだろう。
私たちは進歩しているのか。
日経新聞夕刊のエッセイ「明日への話題」
「老いて心は千々に乱れる」
小池真理子が書いている。
私と同年の女流作家。
「生きることは老いることであり、
老いることこそ生きることだった」
「三島は老いを恐れ、
拒絶していた作家だった」
「40代の若さで自ら幕引きをしたのも
頷(うなず)ける」
「老いとは何なのか」
「どれほど魅力的だった人でも、
例外なく皺(しわ)ができ、皮膚がたるみ、
見た目が著しく変貌する」
「身体のあちこちに不具合が起こる。
物忘れが増える。動作が鈍くなる」
「そして、その先に厳然と控えているのは
“死”なのである」
「若いころは、公園のベンチで、
高齢者が背を丸め、
ぼーっとしているのを見かけても、
老人が眠たそうにしているな、
としか思わなかった」
「生命体である以上、誰もが老いる。
どうすることもできない哀しみや諦め、
虚しさを抱えこんで、なお生きる」
「だからこそ、
ぼーっとするしかなくなるのだが、
当時はそんなことは想像できなかった」
「だが、自分が老いの道に入ってみると、
“高齢者”として社会的に漫然と
一括りにされることへの抵抗は
もちろんのこと、
感傷や千々(ちぢ)に乱れる想いの数々に、
日々、圧倒されていることがわかる」
「まるで思春期である」
「死と生は一本の線でつながっている」
「若かったころは活き活きとした命の
真っ只中から死を見つめていたが、
今は終末の側に立って
生を眺めているような気がする」
作家の文章は、
間に言葉を挟むことを拒絶している。
だからそのまま引用せざるを得ない。
「死と生は一本の線でつながっている」
なのに、命が軽く扱われる。
理不尽この上ない。
同じ日経の「明日への話題」
料理研究家・土井善晴さん。
「季節と暮らし循環する」
「春待ち。
季節を先取りした“はしりもの”とは、
幸福な未来の気配(吉祥)だ」
「このこころ栄えする一瞬は、
日常のハレ」
「日常にもケハレは循環し、
知っていればかなり楽しめる」
土井さんの料理、
簡素にして滋味深い。
「喜びとは自然と人の間に生まれる情緒である」
「おいしさは二つ」
「人間が作る(油脂に担保される)快楽と、
もう一つは、美を捉えた精神の喜び」
二つ、というところがいい。
トレードオンだ。
「西洋の美学は感性の構造に無関心できたから、
後者は言うまでもなく和食だ」
「ラグジュアリー(上質)な和食の美は
味つけや数ではない」
「人工的な味つけや工夫は情緒を殺す」
「和食は、低級感覚とされる味覚・嗅覚に
依存しない無限大の豊かさ。
本能的なおいしさはゴールではない」
最近の美食ブームに注文を付ける。
「そうは言っても、
しっかり味付けしないとおかずにはならないし、
育ち盛りの子供と大人は満足しない」
「日常は、さかりものを、
豚バラとピリ辛に炒めたり、
チーズを焼いた魚のグラタンを入れたりする」
「酸味の出た白菜漬けを食べよくするのに
炒(い)り胡麻(ごま)をたっぷりかけて
豆ご飯に添えた」
「なごりとはしり、ケとハレは絶えず交差し
循環するヘリテージ(伝統)は複雑にして難解だ」
「一汁一菜を基本に、
貧と贅(ぜい)のおかずが
バランスよく自然循環する暮らしは理想」
貧と贅、そのバランス。
これは食品小売業の品揃えに通じる。
日常と非日常。
ケの禁欲円、ハレの享楽円。
日常のハレ。
生きるために、
どちらも身近にある。
それがこころ栄えの一瞬なのだ。
合掌。
〈結城義晴〉