訃報/飯田勧オーケー会長の[関西スーパー方式+ウォルマート]
訃報です。
飯田勧(すすむ)さん。
オーケー㈱会長。
96歳。
商人舎流通SuperNews。
1928年、昭和3年3月23日生まれ。
ライフコーポレーションの故清水信次さんは、
1926年生まれだから飯田さんは2つ年下。
関西スーパーマーケットの北野祐次さんは、
1924年で飯田さんの4つ上だった。
実家は東京都日本橋の酒問屋・岡永商店。
その3男として誕生した。
根っからの商人だ。
1945年、終戦の年に、
海軍兵学校を卒業。
従軍はしていない。
戦後は岡永商店に入社し、
1949年、常務取締役就任。
ご長男の飯田博さんが、
この岡永を継いで、
日本名門酒会をつくった。
地酒ブームを仕掛けたのは、
飯田博さんだった。
温厚な人柄で、
私はずいぶんお世話になった。
食品商業で酒の雑誌を作っていたからだ。
現在は飯田永介さんが次いで、
地酒の第一人者と評していい。
その次の兄が飯田が飯田保さん。
居酒屋チェーン「天狗(てんぐ)」を創業。
運営するテンアライドを創業した。
こちらは飯田永太さんが継いでいる。
末弟の故飯田亮さんは、
セコムを創業した。
三男の勧さんは1958年に、
㈱岡永商店の小売り部門として、
スーパーマーケットを始める。
東京・上板橋のオーケー1号店である。
オーケーのOは岡永のO、
ケーは「小売り」のK。
そしてお客様のご要望には、
なんでも「OK」と応える。
だからOKと命名したと、
私は理解している。
青山の紀ノ国屋が1953年、
福岡の丸和フードセンターが1955年、
その直後のスーパーマーケットの創業で、
日本でも早い時期のスタートだった。
1967年、岡永商店から会社を分離して、
オーケー㈱を設立し、
代表取締役社に長就任。
1975年には当時の通商産業省の支援を得て、
国分寺で初の「無人スーパー」を開発した。
スーパーマーケットの様式を採用して、
売場は無人の店のように見えたが、
バックヤードには人間がたくさんいて、
独楽鼠のように働いていた。
つまりこの店は大失敗。
その後、関西スーパーの北野さんに教えを乞うて、
その無人スーパーの店を大改装。
関西スーパーそっくりの店舗を始めた。
これがオーケーの基礎となった。
現在の店はその当時の関西スーパーの原則を貫いている。
むしろ今でも原則的なのは、
オール日本スーパーマーケット協会に、
入らなかったこのオーケーと、
協会を脱退したツルヤである。
皮肉な結果となった。
しかし飯田さんは、
その店がスタートした半年後に、
ダイエーの中内功さんと手打ちをして、
グループの傘下に入った。
中内さんはセーフーチェーンとOKを、
合併させて関東の拠点企業にしようと考えた。
飯田さんと岡永は、
自主独立の道を選んで、
やがてこの提携は解消された。
その後、飯田さんは、
1986年、エブリデー・ロープライスを始める。
ウォルマートのコンセプトを採用する。
これを貫徹して現在のOKが生まれる。
飯田さんは探していた。
何が本命なのか。
いち早く無人スーパーをつくったが、
これは実態が伴っていなかった。
次に関西スーパー方式を導入した。
これはオーケーの体質となって残った。
そこにポジショニングを加えねばならないときに、
飯田さんははじめダイエー方式を選んだ。
しかしそれは本命足りえなかった。
だからウォルマートをモデルにした。
基本業態+ポジショニング。
それがフォーマットだが、
飯田さんは関西スーパー方式に、
ウォルマートのコンセプトをプラスした。
これが成功の方程式だった。
それ以降のことは、
月刊商人舎2022年12月号に書いた。
特集「オーケーとロピア」
「安売り原点説」を凌駕した“正統派”食品小売業の比較研究
1986年4月、基本方針を変えた。
それまでの「高品質・お買徳」に、
「Everyday Low Price」を加えた。
第1に品質の良い商品の中から、
価値のある商品・おいしい商品、
鮮度の良い商品・健康に良い商品、
便利な商品を基準として販売する。
第2は毎日を「特売日」として営業する。
基本的に特売日を設けない。
毎週月曜日に商品情報を発行して、
新商品・値下げ商品を告知する。
「ハイ&ロー」の拒否である。
そのうえで、ナショナルブランドを、
地域最安値で販売し、
「最低価格保証」をする。
ウォルマートは「プライスマッチング政策」と呼ぶ。
「万一、他店より高い商品がございましたら、
お知らせください。値下げします。」
オーケーの価格が競合店の価格より高い場合には、
「競合店に対抗して値下げしました。」と、
POPを付けて値下げ販売する。
そして「借入無しで年率 20%成長を達成する」
これは現在の目標だが、
飯田さんは1996年3月6日、
最初の目標を公開した。
「年率30%成長に挑戦」
3年半後の1999年9月8日に達成すると次の目標は、
「借入れ無しで年率30%成長を達成する」
さらに次は、売上げ規模を拡大しつつ、
経費率を15%に抑え、経常利益を5%稼ぐ。
このようにして飯田さんは、
2010年3月期に年商2000億円をクリアし、
借入無しで年率20%以上の成長を、
継続して実現するレベルに到達した。
飯田経営は一貫して、
高い目標を社内外に公開し、
それを必死で達成するという、
「目標達成主義」だった。
詳細は商人舎2022年12月号を再読してもらいたい。
この一冊が飯田勧さんへのはなむけとなった。
稀代のスーパーマーケット経営者だった。
ご冥福を祈りたい。
〈結城義晴〉
2 件のコメント
OKさんがウォルマートをベンチマークしていたのは理解していましたが、関西スーパー方式が根幹にあったことは存じませんでした。ウォルマートが日本で失敗して、OKさんが成功した理由の一つがそこにあるのかもしれないと思いました。
飯田勧さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
吉本さん、その通りです。
基本業態+ポジショニングが必須なのです。