伊藤忠CEO岡藤正弘の「かけふ」と「会議は嫌い」
日経新聞「私の履歴書」
今月は岡藤正広さん。
伊藤忠商事会長CEO。
痛快な言説が話題になっている。
1948年、大阪生まれの団塊の世代。
第22回は「会議、誰のため?」
同感することばかり。
伊藤忠の社長になった岡藤さん。
「私は昔から会議が大嫌いだったのだ。
大阪弁でいう『いらち』、
つまり短気でせっかちな性格のせいかもしれない」
「ただ、昇進するほど会議に関する無駄が
なんと多い会社かと痛感するようになった」
「こんなことをやっていたら会社が潰れる」
伊藤忠では毎週月曜午前に、
情報連絡会が開催されていた。
各カンパニープレジデントと海外主管者が集う。
そこで社長になるとすぐに、
情報連絡会の時間を短縮した。
続いて毎週月曜開催から月1回に。
ついには廃止してしまった。
1年に1度、特別経営会議は、
3日かけて開催していた。
これも半日に圧縮した。
重要なこと。
「会議を実りあるものにするため
上司に予習を課した」
議題を事前に把握して
上司が仮説や結論を持って臨めば
会議は報告の場から意思決定の場に変わる。
それだけで生産性がどれだけ向上するか。
「稼ぐ、削る、防ぐ――」
略して「かけふ」
これが岡藤流経営改革の合言葉となった。
私は逆だった。
㈱商業界の社長になって、
何十年にもわたった財務の不良債権を発見した。
それをすべて公然化した。
その年度は過去最高の経常利益を出し、
その一方で不良債権を、
一気に特別損失で落とした。
会社を債務超過にした。
そして大改革を始めた。
出版社にはありがちなのだが、
部署ごとに「蛸壺」を掘って、
ばらばらに仕事をしていた。
荒井伸也さんが指摘した、
「悪しき職人化」がはびこっていた。
その態勢を部門横断型の組織にした。
「クロスファンクショナルチーム」だ。
そして、
「月曜ミーティング」を始めた。
商業界の始業は9時半だった。
しかし編集部などは10時、11時、
場合によっては昼出社が当たり前だった。
そこで毎週月曜日。
部長や編集長全員に、
朝8時に出勤してもらった。
前の週の問題点を洗い出し、
議論をして解決する会議だ。
伊藤忠がやっていた「情報連絡会」と同じ。
ただし議題を事前に把握して、
仮説や結論を持って臨む。
意思決定の会議にしようとした。
はじめは全然、うまくいかなかった。
ある部長は冗談風に言った。
「朝、家を出るときに鍵を閉めるけれど、
暗くて鍵穴が見えません」
部長・編集長が月曜8時から会議で議論し、
それが終わるころ一般社員が出社してくる。
それを見せつけたかった。
そして月曜ミーティングは続いた。
当然のように反発もあった。
そんなことをしながら、1年ほど。
改革プランができ上って、
上昇気流に乗り始めた、と思った。
そこで私は社長を解任された。
それでも過去最高益を出して、任期満了で会社を去った。
岡藤さんは伊藤忠という大商社の社長だった。
そこにはびこる「マンネリ」を正そうとした。
私の場合は小さな出版社だった。
そこで大改革を試みた。
だから無理やり、毎週月曜の会議を開いた。
今思うと、
あれは失敗だったかもしれない。
しかしそんなに悠長なことはしていられなかった。
私も長い会議は好きではない。
今、商人舎は少数精鋭。
会議を開かなくとも、
全員が意思疎通できる。
そんな会社でもときには、
年に一度、3日連続の会議など、
開いてもいいかもしれない。
意図のある会議、
目的をもった会議。
それは必須だ。
報告連絡のための長々とした会議は、
全く必要ない。
〈結城義晴〉
2 件のコメント
私は子会社経営の立場でしたので、貸借対照表経営の観点は正直、希薄でした。大変な局面での困難な判断、決断の連続でいらっしゃっただろうとお察しします。
私の場合、雇用責任の考え方で迷うことが多く、やはり何が正解だったのか、いつまでも考え続けてしまいます。
吉本さん、ありがとうございます。
私自身は粛々とやったつもりですが、
思い返してみると強引だったかもしれません。