横浜は、
日差しも、
何か透き通って、
さわやかです。
9月2日。
私の55回目の誕生日。
生まれた日には、
母に感謝せよ。
いま、私も、
心の中で、
81歳になった母に、
しみじみとした気持ちで、
「ありがとう」
ついでに、
70歳を超えるまで、
真剣に仕事と向き合って、
最近は、毎日、
碁盤に向き合ってばかりの80歳の父にも、
「ありがとう」
ふたりは、
同じ横浜の空の下で、
ゆったりと
暮らしています。
わたしも、
折り返しの55歳から、
父母の年を過ぎるまで、
たぶん、
仕事をしています。
昭和27年、9月2日。
福岡県早良郡早良町大字小笠木字脇山村という山の中の村で、
私は、生まれました。
現在は、福岡市早良区大字小笠木と地名が変わっています。
父は、古河電工の社員、
母は、看護婦でした。
脇山村は、20世帯ばかりの、
小さな村で、
結城姓ばかり。
いわば結城一族。
だから、村中が、みな、
ホンヤ(本家)のおばさん、
インキョ(隠居)のおじさん、
ジューローおじさん、
シゲローおばさん、
マサチャン、
ヨシチャン、
ヨシコサンなどと、
愛称で呼び合っていました。
山があって、
田んぼがあって、
集落の中を川が流れていて、
その川のほとりのうっそうと茂った木々の中に、
小さな古いお宮があって、
お宮のお堂の壁には、
源平合戦の額が掛けられていて。
米を作って、
孟宗を掘って、
鶏を飼って、
牛を飼育して、
だんだん男は町に働きに出るようになって、
女が農業をするようになって。
やがて、志を抱いて、
中国・満州へ。
祖父が、この結城一族の長でした。
祖父は、率先して、
満州へ。
事業家として成功を収め、
弟たちを呼びます。
しかし、終戦。
すべてを失った結城一党は、
脇山村に帰ってきます。
父は、終戦直前に関東軍に採られますが、
幸いにすぐに太平洋戦争は終結し、
帰還。
祖父と一緒に、
脇山村へ。
青年団長や、
代用教員など務めてから、
古河電工へ。
福岡で母と出会い、
結婚。
村では、
仕事を持つ女は、
初めてで、
母は、奇異の眼で見られました。
しかし、ずっと仕事を続けました。
そんな母と父のもと、
私は、55年前に、脇山村で生まれました。
そのことを誇りにしています。
脇山村には、
今日も、
透き通った空気が、
満ちていることでしょう。
横浜にも、
秋の風が通り抜けています。
父の時代には、
55歳が定年でした。
私もその年です。
しかし、私は、これから。
これまでにいただいたものを、
いかしてゆく。
それが私の人生でしょう。
胸いっぱいに、
大きく空気を吸い込んで、
静かに、前に踏み出します。
<結城義晴>