第16話 ポテトキング、牛島謹爾2011年11月16日(水曜日)

ジョージ君はアダルト・スクールの学生から、やっと正式に、憧れのアメリカの大学生になった。
とはいっても短大なので権威も何もないが、子供のころから漠然と憧れていたアメリカ留学が26歳でかなった。
しかし、もう夢など追っかけている年ではなく、焦りもあったが、感慨深いものもあった。

ある日、図書館で勉強していると、美人のデンプシィー教授がジョージ君のところにきた。
「あなたは日本人ね?この日本語の手紙が読めるかしら、読めるならこれを翻訳してちょうだい」
「はい、何とかやってみます」

手紙を見ると、なんやら漢字ばかりであった。要するに、漢文である。
しかし文字の内容からみると、これは中国人による文でなく、日本人によるものであることは明らかだった。
宛先は福岡県県知事殿と書いてある。
送り人は牛島謹爾とあった。
それにしてもどうして漢文なのだろうか?

文中には、米国加州(カリフォルニアのこと)、大日本帝国、日本人新天地、日本植民地、などの文字が並んでいた。
「USHIJIMA KINJIは、このカリフォルニアの地に日本人の新天地を切り開く。ここに日本の植民地を創るのだ。どうか、福岡県知事殿、植民地開拓のため、たくさんの若く元気な日本人をここに送って欲しい」という内容であった。

ジョージ君が、子供のころから潜在意識の中で思っていたことが、そこには見事に書いてあった。
目を皿にしてこの手紙を読んだ。
しだいに興奮してきて、涙があふれ出た。
会社のためや、家族のためではだめだ。
日本国のために生きたい。
心の中に、また妄想が広がってきた。
常に国家を意識しながら生きる、明治維新や、USHIJIMAさんの時代に生まれたかった。

そもそもUSHIJIMA氏とは誰なんだ?
どうしてここの大学の図書館に、このような手紙があるのか?

たまたま隣に座っていたMrs.FUJIIに聞いた。
彼女は広島県出身で、日系人のFUJII氏と結婚、すでに10年以上この地に住んでいた。
「あら、USHIJIMAさんを知らないの?この大学の一部は彼の膨大な遺産でできたんですよ。
校舎にSHIMA CENTERというのがあるでしょう。あれはUSHIJIMAのSHIMAのことよ。
彼は数千名の日本人の若者を使って、このデルタ地帯の湿地を肥沃なカリフォルニアの農業州にしたパイオニアよ。その功績は白人のフランクリン氏(仮名)と並ぶのよ」

「ヘぇ~すごいな。実は僕はフランクリン氏の孫娘の家にホームステイをしているんです」

「それはすごいじゃないの、そんな幸運な日本人留学生はいないわよ。
ところで、この大学の校舎にフランクリン・センターがあるでしょう。あれはあなたのホスト・ファミリーの寄付と偉業を記念して名前がつけられたの。
USHIJIMAさんも同じようにこの町の大功労者で、世界の“ポテトキング”と呼ばれたわ。
数万へクタールの大農場を経営し、世界のポテト相場を左右していたのよ。
カリフォルニア開拓時代に日本人がカリフォルニアでなした役割はとても大きなものよ。
日本社会でももっと、アメリカ開拓時代や、カリフォルニア州でいかに日本人や日系人が大きな役割を果たしてきたか、教えるべきね。
彼らのおかげで日米関係が始まったのよ。
それは日本繁栄の基礎を創ったのは、彼ら日系人よ。
日本のプロ野球だって、この日系人の子弟が巨人軍創立に大いに貢献したのよ。巨人の当時の大スター、与那嶺とか、どこのチームか忘れたけど、米田選手など、たくさんカリフォルニア出身の2世がいたのよ。
ちなみに歌手の森山良子のお父さんも、日系人の一人よ」

「ところでこの漢文を英文に直すように言われたのですが、僕は英語も漢文もできないから困っています。
まさか、デンプシィー教授にできないとは言えない。日本人の教養が疑われるでしょう」

「いいわ、私がやってあげる」
彼女は日本では看護婦だったが、広島の宮司の娘で、ジョージ君よりは漢文の素養があった。

以下は福岡県が寄贈した石碑の一文である。
彼の功績を知っていただくために、石碑に関する文を借用させていただく。
なお、下記の文と上記の手紙の内容は直接には関係はない。

「奮い立てよ 若き人々よ、祖国のために」
サンフランシスコ郊外サンマテオの高台にあ
る『牛島謹爾君之碑』に、渋沢栄一子爵が揮
毫した言葉がある。
日本の近代化の夜明け。一八八八(明治二
一)年十二月十五日。ひとりの若者が横浜港
から海を渡った。考えられないほどの苦難に
も打ち勝つ魂が、ただひとつの財産だった。
牛島謹爾は一八六四 (元治元) 年一月六日、
三潴郡掛赤村(現久留米市梅満町)に牛島彌
平、たい夫婦の三男として生まれた。幼名は
清吉。牛島家は二百年来の旧家で、父彌平は
村役人まで勤め、母たいは漢文の素養がある
ことから、村人の尊敬を集めていた。
一八七五年、源泉小学校へ入学。漢学を志し
変則中学中洲校に入ると、学校恒例の詩会で
七言絶句の処女作を発表。「これが十六歳の
少年の詩か!」と、人々を驚かせた。この時
の詩をはじめとした生涯の詩をまとめた詩集
が、『別天詩稿』と題して出版された。
一九二六(大正十五)年三月二一日の事であ
る。『別天』とは謹爾の雅号。一八八五年東
京に出て、漢学者三島中洲博士の二松学舎に
学んだ折、博士に将来を嘱望され与えられた
ものである。
一八八一年、江碕済の北.義塾に転じ、将
来の人生に深く影響してくる日比翁助と知り
合う。謹爾という名は、師の江碕に乞うて改
名したものである。彼は、東京にあって世の
情勢を広く見ることができるようになると、
英語の必要性を悟った。一八八七年の春、東
京商業学校(現一橋大学)を受験したが不合
格となり、彼は英語力の不足を痛感し、米国
に渡り働きながら勉強しようと決心した。
「アメリカは遠すぎる」と父に反対されたが、
その父から旅費のみ援助を受け上京し、三井
に入社していた親友、日比翁助を訪ねた。日
比は、カリフォルニアの貿易商カイエリオに
三井の名を以て紹介状を書いた。横浜出港の
折、謹爾二四歳。アメリカでは大陸横断鉄道
が開通し、「鉄道の時代」に入り東部、中西
部からカリフォルニアへと、第二の民族移動
が始まっていた。
謹爾は、カリフォルニア州のサクラメント
河とサンオーモン河の合流する大デルタ地帯
の沃土に魅せられた。そこは、楊の大木と
蒲が生い茂る沼地で、野牛や野豚が棲息しマ
ラリアに罹るおそれも高く、また常に大河が
氾濫する危険もある、白人農家は近寄らない
土地だった。謹爾は、この肥沃の未開地を開
拓しようと決意した。この大規模な開拓事業
を実現する為には農業経験が豊富で信頼でき
る人の援助が必要と痛感し、郷里の長兄覚平
に助力を求めた。兄は弟の苦難を知り、農業
経験の豊かな二人の農夫を伴い渡米した。こ
の後一九〇〇年の冬、妻子の待つ故郷へ帰る
までの十年を弟と共に過ごした。デルタ地帯
での開拓は難渋を極めた。生涯の盟友となる
リー・フィリップと出会ったのは、ちょうど
その頃である。フィリップはオランダで灌漑
と排水技術を学び、ここでの開拓に応用した。
ふたりの、生涯にわたる固い絆が築かれた。
覚平やフィリップといった協力者を得、彼
らの血の滲むような努力により、事業は次第
に伸展し、馬鈴薯畑は四万㌶の大農場となっ
た。また、市価を左右するほどにもなり、馬
鈴薯王(ポテトキング)と言われるようにな
った。ところがこの頃、日本人農業への風当
たりが強まり、日本人の土地購入や借地が法
律で禁止されるという、排日の嵐が彼を襲う。
謹爾は、全米日本人会会長として、日本人移
民に対し、生活態度を改善し、アメリカ人と
共存を図るよう指導。一方で、事業利益を注
ぎ込んで、アメリカ人に日本人の農業を理解
してもらう活動を続け、州議会、連邦政府に
排日の非を訴え、日米親善の為に尽くし、日
本人移民の礎を築いた。
一九二六年三月、二度目の帰国準備中ロサ
ンゼルスにて病に倒れ帰らぬ人となった。享
年六三歳。没したその日(三月二七日)、勲
四等旭日小綬章が授けられた。
遺品の中にあった、リー・フィリップから
贈られた懐中時計。裏蓋には「何事でもやり
遂げた男へ 何事でも試みた男より」と、刻
まれていた。

      (牛島謹爾 ポテトキング in U.S.A.より抜粋)

USHIJIMA氏のことを知って、ジョージ君は少し力が抜けてきた。
ジョージ君とは違い、彼は日本でもエリートだったのだ。
しかも漢文で手紙を書く、超教養人だった。
ショックだった。
ジョージ君のような凡人がアメリカにきたからと言って、突然すべてが変わるわけはない。
いや、正直何も変わらない。
心の中で無理をしてUSHIJIMA氏との共通点を探そうと思った。
そうでないとアメリカで生きていく自信が湧かないような気がした。

ジョージ君の故郷、出雲の国の歴史は古い。
ジョージ君の家は出雲国分寺建立から間もない、紀元724年の鷹日神社建立の発起人として、歴史に名前が載っていた。
それを後年、出身校の小学校の図書館で見た記憶がある。古さなら負けないと思えた。

曾祖父の兄弟、菊次郎もシアトルで成功、一時帰国後、アメリカに帰る船で客死している。
ジョージ君の家には、シアトルでの菊次郎の葬儀の写真もあった。
6頭立ての馬車での葬式だった。

アメリカで調べたところ、日系人の葬式で車をつかっている写真はたくさんあるが、馬車の葬式の写真はない。
それは非常に古い時代のもので、「貴重な歴史だからその写真を見たい」と、日系博物館で言われたことがある。
菊次郎もUSHIJIMAさんと同じような苦労をしたかと思うと、多少の因縁を感じないこともなかった。
菊次郎は日露戦争に砲兵隊として出兵していた。
当時の砲兵隊は、体力・体格とも優れた屈強の精鋭隊であった。
その彼が、どういう経緯でアメリカに渡ったかは知らない。
彼の勇気や体力が、少しでもジョージ君の体の中に流れていて欲しいと願った。

でも所詮菊次郎の勇気や、USHIJIMAさんの頭とは出来が違うように思えた。
USHIJIMA氏を知るにつれ、自信を失ったジョージ君であったが、それでもうれしかった。
ついにアメリカにおける日本人の理想像に会えたような気がした。
牛島謹爾の存在はジョージ君の心に微かな光を灯した。

同時に、彼とジョージ君の違いも明確になった。
ジョージ君は自分の平凡さに気づき始めていた。

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つづく

ジョージ君アメリカに行く

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