〈第11話〉 ヨハンナさんとの出会い
第4章 ―――― OPTIMUM HEALTH INSTITUTE(オプチマムヘルス協会)
ヨハンナさんとの出会い
オプチマムヘルス協会(O.H.I.)で過ごした中で一番楽しかったことは、毎週金曜の夜に行われる恒例のエンターテインメント・ナイトである。これは入所者による隠し芸大会で、金曜の朝になると食堂の隣にあるラウンジに希望参加者名と発表する演目内容を記入する用紙が置かれる。昼を過ぎる頃にはその用紙が参加者の名前で一杯になる。
最初の週はこんな催しがあることに気が付かず、2週目に初めて観に行ってみた。
体操やヨガを行う大きな体育館に椅子が沢山並び、前方には舞台になる場所が設けられていた。そこではピアノやバイオリン、そして、ギターなどの演奏、寸劇やオペラ、歌やダンスが入所者によって順番に披露されていた。ピアノは元々そこにあるが、その他の楽器を持ち込む人もいた。彼らはここへ入所する前からこのような催し物があることを事前に知っていたのだろう。
あまり上手いとは言えない人から、プロなのでは?と疑うほど上手な人もいた。後で聞くと、私は名前を知らないが実際にプロとしてニューヨークのオフブロードウエイで活躍する役者さんもいた。私が滞在中には著名な絵本作家も参加されていて、自らの作品の読み聞かせをしてくれた。
私も3週目の金曜日に唄を披露することにした。英語の曲では敵わないと思ったので、私の好きな歌である“竹田の子守唄”を日本語で唄った。唄う前に、どういう状況で歌われた子守唄なのかと簡単に紹介し、私なりの解釈を付けた。
私があやす赤ん坊は自分が抱える病気で、私は家族と離れて慣れない場所(O.H.I.)へ来てその病気の面倒を見、いつかは役割を終え、在所を越えて家族が待つ町に帰るという状況に置き換えて唄うつもりだと説明した。
唄い終えると、皆から暖かい拍手を貰った。日本語はよく解らないけれど、私の説明で唄の真意が掴めたし、ノスタルジックなメロディーに涙が出そうになった、感動したよとまで言われ、少し恥ずかしかったが、嬉しかった。唄って良かった。
このショーのとりは、元エンターテイナーで、今はO.H.I.のスタッフリーダーとして働くミス・ルイスのものまねヒット曲メドレーだ。O.H.I.の名物と噂される多芸な彼女は、マイケル・ジャクソンから、シュール、ダイアナ・ロスなど、有名歌手の歌真似を毎週披露してくれる。
ショートヘアーでボーイッシュな彼女は、普段は化粧一つせずに働いている。けれども、カセットレコーダーからカラオケ音楽が流れ、メークアップをして派手なジャケット一枚を羽織ったミス・ルイスが登場すると、殺風景な体育館がラスベガスのショーステージと化す。見学の人々は「待ってました!」とばかりに席を立って口笛を鳴らし、拍手喝采でミス・ルイスを迎える。特に、彼女の十八番であるジャズ歌手ペギー・リーのものまねで歌う“Fever”は、抜群にセクシーな演技で歌い上げるので、毎回リクエストが入る。ものまねのコロッケさんではないが、少しデフォルメされたミス・ルイスのものまねに皆が大笑いし、本当に素晴らしいの一言である。
それを観ながら、O.H.I.特製の酵素発酵飲料リジュビネーションを飲めば、お酒が無くても酔っぱらったような良い気分になる。
そして、このエンタテーメント・ナイトで、私はある女性との出会いを体験する。
東海岸ペンシルバニア州からアメリカ大陸を渡り、西海岸にあるO.H.I.へ入所するためにやって来た彼女の名前はヨハンナさんといった。歳の頃は見たところ60代前半くらいで、華奢な体をした彼女は、肩まで伸びた白髪を品よく纏めて結っていた。
ヨハンナさんがゆっくりとした足取りで舞台に現れ、終始微笑みながら歌を披露した。何という題名かは忘れたが、それは美しい賛美歌だった。
歌い終えると彼女はこう言った。
「2年前の夏に、初めてO.H.I.へ来くる前の私はとても弱っていて、小さな声で途切れ途切れに話すことしか出来ない状態でした。あの時は、こうして皆様の前で歌うことなど考えられませんでした。けれども、O.H.I.のプログラムで健康を取り戻し、今この場所に立ち、こうして皆様の前で歌うチャンスを与えて下さった神様に心から感謝します。」
私はヨハンナさんのことが印象に残り、次の日の昼食後に庭で彼女を探しあてた。
先ず自己紹介をして、前夜の歌に感動したことを伝えると、ヨハンナさんはありがとうと何度も繰り返して私を抱きしめた。
彼女は、このO.H.I.へ入所するのは今回が3度目で、毎年来るつもりだと話した。ヨハンナさんは日本食が大好きだそうで、一度も訪れたことのない日本に興味を持ち、何でもいいから日本のことを話して欲しいと私にせがんだ。
それからは彼女に会うたびに日本について様々な話をした。敬虔なクリスチャンであるヨハンナさんは、私をいつも優しくハグして、
「私の大事な娘よ、貴方に神様のご加護がありますように。」
と、私の為に祈ってくれた。
慣れない環境で時折孤独を感じていた私は、ヨハンナさんに自らの母の面影を重ね甘えた。
私より先にO.H.I.を出ていくヨハンナさんが、別れ際に、
「貴方ならこれを日本語に訳すことも出来るでしょう。日本にいる沢山の人達にも、いつか私のストーリーをシェアー(分かち合う)してください。」
と言うと、自らの記録を綴った4枚の原稿用紙を私に手渡した。
そこには、ヨハンナさんが2度目の癌を発病して瀕死の状態に陥り、そして再び蘇った記録が綴られていた。彼女が健康を取り戻していく過程でのターニングポイントとなったO.H.I.での生活習慣を今も続けて、仕事をしながら健康に生きるヨハンナさんの事を知った。
そして、この事実が私に大きな希望を与えてくれた。
ヨハンナさんと別れて1週間後、私が出所する日が訪れた。
主人に連れられたユウキが私を見つけて息を切らしながら走ってくる。私は両手を一杯に広げて再び我が子を抱きしめた。彼の小さく細い両腕が私の腰に巻きつき、ギュと力が込められた。寂しい思いをさせていたのだと感じて切なかった。
懐かしい息子の甘い匂いを深く吸い込んだ。
「もうぼくをおいて、どっかへいかないでしょ?」
「うん。いかないよ。」
「ずっといっしょにおる?」
「うん。ずっと、ずうーと、一緒におるよ。」
五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター
2 件のコメント
もうずっと家族3人で・・・
また涙がでちゃいました。^^;
コメントありがとう御座います
あの頃の息子はこの9月に15歳になります
もうハグしてくれないのがちょっぴり寂しいですね
でもずーと一緒です。