〈第25話〉 鈴木美恵さん
第9章 ―――― My Dear Friend (親愛なる友へ)
鈴木美恵さん
2006年7月8日、月刊“ダイエット&ビューティ”主催座談会の翌日、私は東京から静岡県の三島駅に向かい、沼津行きのローカル線に乗り換えた。この日、私にはどうしても沼津へ行きたい理由があった。
闘病時代の2002年、日本で抗酸化サプリメントと生薬を処方し、西洋医学に対して不安や疑問を抱える癌患者に代替治療を行なう医師を、知り合いから紹介された。私はその医師の診断を受けるために訪れた診療所で順番を待つ間に、隣に居合わせた女性と仲良くなった。彼女の名前は鈴木美恵さんといい、出会った日から約2年後の2004年6月13日に36歳の若さで彼女が天に召されるまで、Eメールを交わし続けた友人であった。私は沼津市内にある美恵さんのお墓にお参りがしたかった。
歌手の今井美樹さんに少し似た彼女は、私の息子とほぼ同じ年頃のお嬢さんがいた。子供の為に絶対生きようね、元気になろうねと、お互い励まし合いながら色々な代替療法や食事療法についての情報を交換し合ってきた。
美恵さんは卵巣癌の再発で、先に受けた放射線や抗癌剤治療によって自らの身体を傷つけられたと語り、もう二度と抗癌剤は受けたくないとの強い意思を持っていた。そして玄米菜食を取り入れた食事療法や、ヨガや気功体操に通って自己免疫力を高める事を続けていた。常に前向きで、病と戦いながらも、主婦と子育てに奮闘する美恵さんの毎日が生き生きと綴られていたメッセージのほとんどは、「元気ですか?私は元気です!」で始まっていた。そして亡くなる3ヶ月前の2004年3月7日に送られてきた次のメッセージが、美恵さんからのラストメールとなった事を、その後に知る事となる。
「ありがとう!私も自分は治ると毎日頭にたたきこんでいます。そうすることで脳はそれを証明しようとするそうです。 ゆうこさんにも、たくさんの情報や励ましの言葉をいただき、どんなに私にとって力になっているか―。ありがとうございます。お互い頑張りましょう!私も絶対まけません。」
励まされていたのは私も同じだった。美恵さんと交わしたEメールの全ては、受信箱のローカルフォルダ内に今も“MIE”の名で保存してある。
悲報、そして沼津駅にて
2005年の11月に日本へ帰国した際、久しぶりに美恵さんの声を聞きたいと思い、彼女の携帯番号に電話を掛けた。すると、電話に出たのは美恵さんではなく、女の子の声だった。“きっとお嬢さんだ”と思い、
「友人の五十嵐と言います、お母さんに代わってもらえますか?」
と尋ねた。すると、小さく息を吸い込むような音が聞え、少し沈黙が流れた。悪い予感が私の頭を過ぎり、心臓がドキドキと鳴り始めた。
「あのう、ちょっと、お待ちください…」
途切れがちな少女の声が、私の鼓動を加速させた。
暫くしてから、男の人が電話口に出てきた。美恵さんのご主人だとすぐに分かった。
「ああ、五十嵐さん、五十嵐ゆう子さんですね?美恵から貴方の名前は時折聞かされておりました。実は…残念ながら、妻は…昨年の6月に亡くなりました。妻の携帯電話は今、娘のハルカが使用しているのです。」
その一言で、完全に気が動転した私は、何と言葉を続けていいのか分からなくなった。激しい鼓動の音にめまいすら覚えた。緊張で乾いた喉の奥からやっと発した言葉は理性を失っていた。
「あ、あ、あのすみません、電車が来てしまって、今乗らないといけないので、また電話します。」
私は咄嗟に嘘を付いて電話を切ってしまった。そのまま年が明けるまで、電話を掛ける事が出来なかった。
そして翌年の4月になり、日本へ数ヶ月後に帰国する事が決まってから、再び鈴木さんへ電話を掛けた。先の失礼を詫びて、お墓へぜひお参りしたい旨を伝えた。鈴木さんは快く受けてくれた。
鈴木タツヤさんとお会いするのはその時が初めてだった。小雨がぱらつく中、三島駅でローカル線に乗り換え、沼津へ到着した頃はちょうど梅雨の晴れ間で駅の外に出ると木漏れ陽が射していた。
鈴木さんは駅まで車で迎えに来て下さった。彼の温かな笑顔は、緊張していた私を和ませてくれた。美恵さんが眠る霊園へは、車で10分ほどの距離だった。
中へ入ると、線香や蝋燭が並んでいる無人の売店があり、そこでお線香を買い求めた鈴木さんに続いて、私も線香を買った。彼は水の入った手桶と柄杓を持ち、先頭に立って美恵さんのお墓まで私を案内してくれた。
美恵さんが眠る御影石に、鈴木さんは小さな声で「美恵ちゃん」と話し掛けながら、私が来たことを告げ、まるで生きている女性を扱うかのように、優しくゆっくりと石に水を掛けて綺麗に磨き、線香に火を点け、持参された花を墓前に供えて手を合わされた。
私も線香に火を点けて手を合わせながら呟いた。
「美恵さん、ごめんね遅くなって、やっと貴方に逢いに来たよ。」
実は彼女が亡くなる前の年(2003年)の7月に、三島で待ち合わせて一緒に昼食を取る約束をしていたが、私が新幹線を乗り過ごしてしまい、時間が遅くなって、彼女のお嬢さんのお迎え時間と重なってしまった。「じゃあまた、来年に会おうね!」と本当にまたすぐ逢うつもりの感じで、お互い電話で話して別れた。
その翌年(2004年)、私は入院し、抗がん剤治療に入り、彼女もまた2003年のクリスマス前から入院したので逢う事が出来なかった。
美恵さんとのEメールのやり取りは、定期的にあったわけではない。毎日のように沢山やり取りする時もあれば、何ヶ月も音沙汰が無い時もあった。
“ああ、あの時、私が遅れなければ逢う事が出来たのに。もしくは、またすぐに、2~3日後にでも沼津へ来る事も出来たのに”と悔やんだ。
霊園を出た後、鈴木さんから、
「五十嵐さんのお時間がまだ大丈夫なら、妻が生前通っていた、お気に入りの喫茶店が近くにあるので、コーヒーでも飲んで行きますか?」と誘って頂いた。
五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター