〈第26話〉 最後の最後まで希望を失わなかった美恵さん
第9章 ―――― My Dear Friend (親愛なる友へ)
最後の最後まで希望を失わなかった美恵さん
闘病中の約2年間、お互いに励ましあってきた鈴木美恵さんのお墓参りを済ませた後、ご主人の達也さんに誘われて、一緒にお茶を飲む事にした。
そこは木材で造られたロフト風の喫茶店で、外から店内へ自然光が差し込むようになっていた。午後3時を回った静かな店内には、店長と私達だけだった。“コポコポ”とサイフォンで点てられるコーヒーの音と漂う香りの中で、私達二人は暫く沈黙していた。目を細め、窓から差し込む陽を眩しそうに見ていた鈴木さんから語り出した。
「実はね、美恵ちゃんが亡くなって以来、ここへは来てなかったんです。僕らは学生時代からずっと一緒だったんですよ。だからね、やっぱり最初は辛くてね… なかなか想い出のある場所へは行けなかったんです。いやあ、まだ凄く寂しいですよ。彼女に代わる女性は本当に居ないと思っちゃうんですよ。だから、こんなんだから、もう一生再婚なんて考えられないです。でもね、最近、娘の奴が美恵ちゃんにもの凄く似てきてね、いやあ、話し方なんてそっくりで吃驚しちゃいますよ。幼くして母親を亡くした娘も僕以上に辛かったと思うんですが、しっかりしていてねえ。娘に助けられる事も多いのです。ああ五十嵐さん、美恵ちゃんの写真とビデオが携帯に残してあるんで、良かったら見ますか?」
「ええ、是非。」
小さな携帯のビデオ画面に笑って手を振っている綺麗な女性は、私の記憶の中にある美恵さんだった。そして次に見せて頂いたのは、亡くなる数週間前に撮られたような写真だった。とても痩せてしまっていた彼女の姿に、私の胸は痛んだ。それでも、彼女は美しい笑顔で微笑んでいた。私は美恵さんに触れるように、写真に指をそっと重ねた。
「美恵ちゃんはね、最後の最後まで希望を失わず、絶対良くなってみせるんだって言っていました。実はもっと若い頃に膠原病にかかった事が有り、それは良くなっていたんですが、癌の治療をしている時に、また、膠原病の症状が出てきてしまって。その為に免疫力が弱り、癌を叩くための十分な処置を取ることが出来なくなってしまったんです。だから、膠原病さえ併発しなければ、助かっていたと思うんですが…。寝ていた病室は子供達が入院している部屋のすぐ近くでね、具合が悪くなっても自分のことよりも子供たちの事を気に掛けて、最後の方は意識がはっきりせず、うわ言を繰り返してね。よく聞くと、“シー、静かにして、子供達が起きちゃうから”って。これが最後に聞いた彼女の言葉でした。随分辛かったと思うんですけど、亡くなる前は本当に眠るように逝ったんです。ものすごく綺麗な顔していました。おかしいよね、最後の最後まで付き添って、どんどん弱くなっていく彼女を見ていたのに、今はどうしても美恵ちゃんが元気だった頃の顔しか思い出せないんですよ。」
鈴木さんの目に涙が光った。彼は慌てて人差し指でそれを拭い、その指と親指で鼻の頭を摘んで瞬きをし、深呼吸を一つした。“普段は、滅多に人前では泣かない人なのだ”と思うと、今度は私が泣いてしまいそうになった。しかし、そこで私が泣き出せば、きっと彼の涙が止まらなくなると咄嗟に感じた。鈴木さんに気付かれぬように私は微かに震える下唇をかみ締め、外の景色を見るかのように顎先を上げ窓の方向へ顔を向けた。
美恵さんが伝えたかった事
沼津駅へ送ってもらう途中、車内では途切れる事無く、2人で美恵さんについて語り合った。2年間Eメールのやり取りをし、お互いが試していた代替療法の情報交換もしていた事を話したら、鈴木さんもよくご存知だった。
「いやあ、美恵ちゃんも五十嵐さんに負けず、食事療法に始まり気孔療法まで、ほんとに何でもやっていましたよ。中にはちょっと宗教じみているのもあって、本当に大丈夫なのかな?と心配したのもあったけど。でもね、それをやることによって、本人が治るという希望を持てるならそれでも良いと思い、出来る限り応援し、協力し、理解しようとしました。いつか癌を克服し、日本中を回って、自分と同じような境遇の患者さんの心を癒し勇気付けてあげるんだって目をキラキラと輝かせて、何か色々と資料を集めたり、書いたりしていたようですよ。本当に彼女は全速力で生きて人生を駆け抜けて行った感じですよ。僕はね、ああいう結果にはなったけど、やりたい事をやらせてあげた事に後悔はしていません。美恵ちゃんも同じだったんじゃないかなと思います。例え短くても、あんな生き方があってもいいんじゃないかなって。そうそう、美恵ちゃんが亡くなってから何か書き留めていたノートを見つけたら、中にこう書かれてあったのです。」
ハルカちゃん、
ちょっぴり気が強い性格が、私に似ていて心配だけど、
本当はとても優しくて、笑顔が素敵な私の大切な娘
タツヤさん、
少し頑固で不器用なところもあるけど
世界で一番大好きな、私の大切な旦那様
私はそれを聞きながら、心の中が熱くなるのを感じていた。
鈴木さんに別れを告げ、駅の改札に入る前に、私は意を決し振り返り見送る彼に向かって大きな声でこう言った。
「鈴木さん!あのう、もし良ければ、いつか美恵さんの事を私に書かせて頂けませんか?いつになるかは、まだ分からないんですけど、でもいつかきっと、美恵さんの事を、そして彼女が病気を通して人々に伝えかった事を、この手で伝えたいんです。」
鈴木さんは最初に会った時と全く同じ笑顔で頷かれていた。
五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター