”No More Cry.”
先日、大阪で起きた痛ましい幼児二人の遺棄事件を受け、長妻厚生労働相が児童虐待防止法の改定を視野に検討し、事件の現場である大阪市では、児童相談所が緊急性が高いと判断した場合、消防局の救助隊が安否の確認を行なうシステムを導入するという報道をテレビで見た。しかし、現実的には虐待が疑われる現場への強制立ち入りは法的な手続きのハードルが高すぎるため、動けないのが問題のようである。
一体あと何人の幼い命が失われたら、そのハードルを根本から覆すくらいの対策を行なうのか?正直言ってこれ以上、胸が引き裂かれんばかりの悲しい報道を目にしたくない。これほど物が溢れている現代の日本で幼児が餓死するなど、あってはならないことだ。
日本では2009年度に4万4210件の虐待に関する通報が児童相談所等にあったが、強制立ち入りを行ったのはたった1件だけだったそうだ。半年間に検挙された児童虐待は約180件、そのうちの18名の児童の命が断たれたという数字からは、今この時にも命の危険にさらされている子供達が多くいるのではないかと懸念される。
米国では年間に約330万件の児童虐待に関する通報がある。(米国では、虐待の疑いがあるときは必ず通報しなくてはいけないという義務があるので、どうしても通報件数が多い。)その中で実際に疑わしいケースのほとんどに対して、行政部門が立ち入りをしている。それでも2008年度には約1700名の死亡に至ったケースが出ている。連邦政府によって立法された、現在の児童保護法が制定される以前は、犠牲者の数は年間に3000人を超えていたそうである。
米国の児童保護法について知っていた私は、こちらでの子育てには非常に気を使い、子供が12歳になるまでは片時も目を離さないように注意して育てた。厳しすぎると感じた時もあったが、実際にその厳しい法律無しでは子供達を守れないのなら、そのようにすべきだと心から思う。
マスコミや雑誌は幼児遺棄の容疑者を残酷で身勝手な鬼母と報道し、その女性の遍歴などを連日書きたてているようだが、そんな報道を続けても虐待を防ぐことにはならないと思う。もちろん彼女が犯した罪に社会の制裁を与えるのは当然だが、報道媒体は今、もっと他にやるべきことがある。
必死に悲鳴のような泣き声をあげて助けを求め続けた幼子を、結局救ってやることの出来なかったまわりの大人達が問題ではないのか?完全に何かがおかしいと感じていても、当事者を確認できるまで踏み込むことが許されない社会のしくみも、同様に残酷だったのではないか?と私は考える。
2年前のことである。古くからの知り合いの日本人男性が、アメリカ人の女性と結婚して日本で暮らしていた。だが突然、彼の留守中にその妻が5歳の息子を連れて、以前暮らしていたアリゾナ州のフェニックスに戻り、以前のボーイフレンドと3人で住み始めた。彼は米国滞在中にフェニックスに長く住んでいたので、妻のことを知っている友人に頼み、息子の状況を逐一調べてもらっていた。すると、どうも虐待の疑いのあることが判明した。彼は息子を助け、実家で引き取るために現地へ向かった。そして様々な調査の上で裁判となり、結果的に親権を勝ち取った。
驚くのは、弁護士と保安官が連れ立って、妻がボーイフレンドと住むアパートに強制立ち入りを行なったのは、感謝祭ホリデーの真っ最中。日本で言えば正月の2日か、お盆休みのど真ん中である。子供を取り戻すために動いた人々全員が休み返上で協力したところは、さすがアメリカだなと感心する。3人が暮らしていた部屋には麻薬の匂いが充満し、子供は日本で着ていたのと同じ着衣のままで、髪は伸びっぱなし、身体からはすえた匂いがしたそうだ。
その後、引き続き裁判を行うこととなったのだが、虐待の事実については確証が難しいと予測された。彼女達の麻薬常用が子供に与えた悪影響に関しては申し立て出来るけれども、虐待に関しては身体的な暴力の痕がなく、言葉や育児放棄的なものだったからである。
しかし、その子が預けられていたデイケアの保母さんが「たとえ自分の立場が危うくなろうとも、この子に虐待の兆候があることを私は疑わないので、証人として裁判で訴えます。」といってくれたそうだ。その一言に感動し、勇気付づられたという彼の言葉が忘れられない。
実は、彼ら親子が日本に戻る前、うちに数日間滞在した。彼の息子は本当に虐待されていたのかと疑うほどの、天真爛漫なかわいい子供だった。けれども、帰国前に母親から声を聞きたいと電話があった際、うつむいて頭を抱え、拒否するように泣き出した。母親が恋しい年頃の子がである。私はその光景を目の当たりにした時、その子の深い心の傷を知った。同時に、手遅れにならなくて良かったと安堵した。
児童虐待への対応で先進国といわれる米国のカリフォルニア州ロサンゼルス郡では、虐待の疑いがある児童を保護した時点で司法関与が始まり、親と子どもの双方に弁護士がつけられ、双方の主張をもとに中立公正な立場から事実確認を行い、親の更生を軸とした処遇を決定する。その後も多くの司法や法律家達が定期的に親の更生の進捗を審理し、家族の再統合(もしくは親権破棄)を目指す。
また、虐待を行なう親は、自らの子供時代に親や周りの大人から虐待を受けていたケースが多いことから、児童保護センターのプログラムの一つとして、そういう親達のためのヒーリング・セラピーやグループ・セッションが行なわれている。アメリカの国民的歌手であった故フランク・シナトラ財団が運営する虐待児童のセラピーセンター内でも、大人のために同様のプログラムを取り入れている。
私も、米国で実際に行なわれている方法も含め、自分なりの対策方法を以下にあげてみた。
①ビルボードやテレビコマーシャルなどに児童虐待防止の広告を出す。
(不定期ではあるが、米国では街にある宣伝用のビルボードを使用して、防止を呼びかけているのをよく目にする)
※関西では数日前から虐待の届出を訴えるCMが制作されたようである。広告媒体の使用を増やして欲しい。
②米国に見習った強固な司法関与の構築
③子育て支援策による給付金等も、様々な子供の状態を書き入れるドキュメントの提出や確認作業の後に給付を行なう。
④児童保護ワーカー数の充実
(米国の担当件数は一人あたりに15件に対し、日本は100件を超えている)
これは国や自治体が多少の援助金を出してでもMUSTである。
⑤児童虐待対応の先進国であるアメリカの南カリフォルニアへの行政による視察と研修
※今回の記事を書くにあたって検索を行なっていたら、33歳の主婦(2児の母)が《「通報すれば確実にその子が救われる」と日本中の人が信じられるシステムが確立されれば、誰だって通報できると思う。虐待の専門教育や海外留学に奨学金を出すなど専門家を育ててほしい。過去に虐待を受けた子供が大人になり、自分のつらい経験を乗り越えて人の役に立ちたいと思っているかもしれない。今、虐待を受けている子供の目標になるかもしれない》と訴えているのを目にしたからでもある。)
⑥上記に関連するが、虐待防止を専門とするプロフェッショナルな機関や人材の育成
(大学などで専門の学科を開設したり、認定制度にして社会的地位を与える。)
⑦各自治体で子供の数や年齢、保護者の確認などを把握する資料を作成・管理して、
定期的なイベント(絵本の読み聞かせ会など)を行うなどして、常に声をかける(参加の有無も記録しておく)
以前にも書いたが、私は幼くして母を亡くしたので、祖母や父、そして近所に住む隣人に愛されて育った。私が子供時代は家に鍵など無かったので、誰の家にも行き来が自由であった。表で咳を一つでもしようものなら呼び止められて、おでこに手をあてられて熱を測られ、風邪でもひいた日には蜂蜜に大根と生姜を擦った飲み物を飲まされた。祖母に怒られて家から閉め出されても、近所のおばちゃんが一緒に謝ってやると言ってくれたり、逆に悪いことをした時は遠慮なく叱られた。何かと周りの大人が関与して、地元の子供達を育てるという風習があった。皆が物質的に豊かではなかったあの時代の方が、人の心は豊かさで溢れていた気がする。今、必要とされているのは、周りを真剣に気にかける社会なのだ。
現代の孤立社会が生み出した典型的な悪習慣である“見ザル、聞カザル、言ワザル”を断ち切り、やがて将来を支えてくれる我々の子供達の為に、皆が勇気ある一歩を踏み出すべきだ。そして小さな身体を優しく抱きしめ、こう言ってあげよう。
「もう泣かなくていいよ、ちゃんと守ってあげるから」と。
五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター
2 件のコメント
改めて、現代社会の中で子供を守って育てることがどれだけコミュニティや社会的な制度を必要としているか、ということを、痛切に感じます。新しく生まれた生命、実の親の愛情を受けられない状況があるとしても、コミュニティや制度が支えてあげなければならない。そんな制度の確立やコミュニティの再生に誰もが少しでも力を差しのべてあげられるような人間関係(そして、それは政治に関係しますね)を作っていくことが、我々一人ひとりの課題なんですね。そういう思いを、読ませていただいて、強く感じました。素晴らしい文章です。
ありがとう御座います
今回の報道の中で
私が一番強く感じた事は
実の母親の未熟さや残忍さ以上に
泣き叫ぶ子供の声を聞き
近隣の住民が児童保護センターへ通報した際に
中から悲鳴の様な声が聞えていたにも関らず
職員が強制立ち入りに踏み切れなかった事実でした。
おそらく本能的に
子供たちは親に対する救いを諦め、
他〔社会)に救いを求めて、
生きる為に
最後の叫びをあげたのだと想像します
しかし、その必死な声さえ届かずに
去っていく足音を感じた時の悲壮感を考えると
あまりにも残酷で、悲しすぎると思いました。
人の命は地球よりも重いのだと言う事を
我々は一から再び真剣に考え、
動くべきだと思います。