愛のコリーダ
ブログも5、6回書くと、地が出るというか? 本音というか?
下衆な私の心が抑えきれなくなる。
真面目な結城先生の顔が浮かんでは来るが?
私に投稿を依頼された不運を嘆いて戴くしかない。
1976年、大島渚監督が、あの1936年の阿部定の猟奇事件を題材に映画を撮った。
下町の男女の性的執着と究極の愛を扱った1976年の名映画『愛のコリーダ』。
サンフランシスコでノンカットで見たときの衝撃を、
今でも鮮明に覚えている。
「英語を憶えるのは、外人の女性とデイトするに限る」
と言うありがたいお言葉を信じて、
私は何度も色々なアメリカ女性をこの映画に誘った。
見せたかったのは、その猟奇的内容ではなく、
愛の行為が遊びまで昇華され、文化になっていること。
私は、そこに感動したからである。
(藤竜也と新人女優の演ずる、その感動的エロティックな行為を、
ここではさすがに書けないが…)
私はアメリカ女性に言いたかった。
貴国と違い、わが国では、それはスポーツでも、本能的行為でも、労働でもない、
長い歴史を持つ日本は愛の行為を文化・遊びにまで高めたのだ、と。
源氏物語や京都の色街と結びつけ、
浅はかな知識、下手な英語でまくしたてた。
もちろん、その晩は、私が光源氏になるはずであったが?
遊びを知らぬ、野暮な日本の若者でしかなかった。
青春はこの地・アメリカでも暗いのである。
何年後か、新聞記事をみて、意を得たりと、強く共感をした。
日本の映画監督が、オーストラリアに2年ほど住んで、
かの地は、セックスは単なるスポーツか、本能だけの世界と書いてあった。
フォロンティアの国、アメリカやオーストラリアでは、
日本の源氏物語や、中国の金瓶梅、インドの性典、カーマストラも生まれない。
ローマはどうか?
食べたものを、一度吐いて、再び食べた続けた。
彼らのグルメを考えれば、彼らの貪欲な遊び心も容易に想像できる。
食べ物もメイクラブも?
同じである。
覇権を握った近代の西洋は
ワインと音楽・ワルツが、すべてを物語っている。
これを壊すのが、田舎物のドイツ人だ。
雅も遊びも解らぬ男たちは、
いつこの世を、戦争という行為で人間の情念を昇華する。
ここから論理の飛躍がある。
(これを評して人は浅野節という)
この大切な遊び心が
日本のスーパーマーケットや小売業には無いのである。
客に尻を向け、汗をかいて労働する。
上司が大きな声で客の前で怒鳴る。
笑顔一つ出来ない。
難しいコンサルタントの先生方、面白くない店ばかりだ。
店内は労働現場、ひたすら必死形相で働いていた。
(すみません、30年前の話しです)
マネジャーに褒められた。これでは彼女や主婦は落ちないだろう。
商業はエンターテイメント、劇場なのだ。
物売りなどという発想から抜け出して、
遊び心、非日常性、喜びの演出が期待される。
何度も貴方のもとに繰り返し通わせたい、その知恵をだせ。
それは私の暗い青春の軌跡・歴史が証明している。
世の中は100年来の不景気だ。
でも良く考えてみる。
これ以上、を作り、商品を買い続ける。
この限られた有限の地球世界でそれが可能か?
ということだ。
人間の数は、やがて60億人をこすという。
あらゆる資源、水や空気ですら、
この生産活動に耐えられなくなってきている。
持続型(Sustainable)社会・農業・生産活動・経済、環境、
すべて目指すべきは、サステイナブルなビジネスだ。
人の喜びや、遊び心は無限だ。
エンターテイメントや持続型を目指す。
ここに自然食スーパーマーケット「ホール・フーズ」の存在意義がある。
ホール フーズのホール スマイル
21世紀の不景気脱出に、遊び心が果たす役割は大きい。
後は環境、美容、健康だ。
戦争の選択はもう無いのである。
そこが20世紀と違う。
(なぜか、愛のコリーダのタイトルが、
ホール・フーズの存在意義になってしまった。もうめちゃくちゃである。)
浅野秀二
1月12日・2009年