中国紀行(2) 西安・重慶へ
北京から西安まで飛行機で1時間半。
中国の歴史上、最大の領地と繁栄を誇った唐の都、
長安に移動した。
長安は、秦の始皇帝が中国を統一してから
13の王朝の盛衰があった街である。
内陸のせいか、北京以上に空気が汚れていた。
とても住みたいと思える街ではないというのが、
第一印象だった。
玄宗皇帝が楊貴妃と遊んだ池には、行く機会がなかった。
1979年に発見された、史上最高の歴史的遺産
「兵馬俑」の見学が目的だった。
実は兵馬俑を見るのは2度目で、
最初に行った時ほどの感激は、正直、なかった。
同じツアーで来ていたアメリカ人の多くは、
すでにヨーロッパを見尽くし、行くところがなくなり、
ついにアジアに目が向き、中国に初めて来た人たちが多かった。
紫禁城、万里の長城、そしてこの兵馬俑を見た彼らは、
中国悠久の歴史と歴史遺産のスケールに、
声も出ないほど感銘を受けていた。
大国アメリカが絶対に勝てない歴史遺産。
アメリカ以上のスケールの大きさである。
ヨーロッパが世界の歴史だと思っていた人たちにとっては
かなりのショックだったようである。
兵馬俑は1974年に井戸を掘っている農民によって、
偶然、発見された。
周囲57平方キロの広大な死後の世界で、
陶器でつくられた、約7000体の始皇帝を守る兵士の像と
始皇帝が乗った銅馬車がある。
夜は、唐の時代の歌と踊りのディナーショーに行った。
これを見ると、中国はこの時代に、
歴史のピークを迎えたということがよくわかった。
唐の時代に、すでにラスベガスがあったのだ。
その後、科挙制度の徹底で前例主義に落ち入り、
1000年の衰退をしたと思える。
それを変えたのが中国共産党の、ここ30年の歴史だ。
ここには一晩泊まり、次は重慶へむかった。
飛行機で一時間。
空港での中国人のマナーの悪さは、
昔と変わらず、妙に安心した。
北京が2000万人、西安は800万人、
重慶はなんと周辺の都市をすべて吸収して、
人口3100万人らしい。
空から見る街は、霧なのかスモッグなのか、よくわからないが、
街が見えないほど汚れている。
ここは丘陵地というか、渓谷や山ばかりの土地で、
揚子江の旅はここから始まる。
日中戦争時、国民党の蒋介石が、
「ここは日本から遠く、内陸で霧が多いので
日本が攻めにくい」と言う理由で、
一時的に首都を移したらしい。
「ここでは日本の爆撃があり、多くの市民が犠牲になった」
と聞いて身を縮めた。
その時の防空壕がまだたくさん残っているらしい。
今ではそこレストランなどを開業している人も多い。
高速道路にのって、景色を眺めていると、
山々には想像を絶するほどの数の新しい高層マンション、
アパートなどが建築されていた。
それもたった、ここ10年のことだそうだ。
何もなかったこの田舎街の山々に、
ニューヨーク以上の高層ビルが建っている。
一番発展の遅れている内陸の重慶の様子を見て、
中国の発展は20世紀後半から21世紀初旬の
世界史の大奇跡であると思えた。
元伊藤忠の会長で、
今は在中国日本大使の丹羽宇一郎さんが、
体を張って、中国と日本のもめ事を阻止したいと言っていたことがよくわかった。
なにかと今まで批判的な目で中国を見てきた。
しかし、その実力の前には敬服せざるをえない。
私と一緒にいたアメリカ人も全員が言っていた。
「中国は敵に回せない」
「やがてアメリカをしのぐ存在になる」
ナポレオンが言っていた。
「眠れる獅子を起すな」
しかし、すでに起きてしまった獅子と、
日本や世界はどう向き合っていくのか?
いずれにせよ、むずかしい。
浅野秀二
4月17日