イタリア紀行【最終回】 敵地、ローマへ
ナポリに行く前にフィレンツェから半日がかりで、
ピサの斜塔に行くことにした。
小学校時代、初めてピサの斜塔の写真を見て、
「何十年後かには確実に倒れる」
先生のその説明に、その夜は心配で眠れなかった記憶がある。
何とかしなければいけないと、子供心にも悩んだ。
さて、この日は暑くなった。
もう38℃。
駐車場からピサの斜塔まで15分。
物も言わず、脇見も振らず、汗も拭かず、歩く。
やがてピサ・ロマネスク様式大傑作、
ドゥオーモ大聖堂が見えて来た。
斜塔のみではなかったのだ。
斜塔は1185年建設中から傾き始め、1350年に完成したという。
高さ55メートルもあり、
傾斜はわずか5度しかないという割には、大きく右に傾いている。
多少の修復をしたので、あと300年はもつと聞いた。
盛和塾では、仕事・人生の結果は、
考え方×才能×努力と学ぶが、
わずか5度の土台の傾きが、その先では大きく狂うことを考えると、
神妙な気持ちになった。
人から見たら、俺はどの程度傾いているか?
5度以上は確実だ。
そうなると、あと3年か?
ナポリからローマに入った。
「すべての道はローマに通ず」
「ローマは一日してならず」
ローマに決して憧れたわけではないが、
多くの物語や、映画の舞台に来たという感慨はあった。
オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』、
チャールトン・ヘストンの『ベン・ハー』、
最近では『グラディエーター』(剣闘士)の映画もあった。
思い起せば、1970年、大阪万国博覧会のイタリア館で
大阪体育大学の学生4名と私、5名でイタリア館の掃除を請け負った。
一日1万円、4名いれば、1時間で終わる。
時給一人あたり2,500円になった。
当時としてはぼろ儲けだ。
そのころはホステスと呼んだが、今で言うコンパニオンが13名、
ペギー葉山の学生時代の歌で有名になった神戸女学院、
また甲南女子大学、同志舎女子大学など、
関西のお嬢様たちが1年休学して働いていた。
これにイタリアから来た身長180センチ以上で
編成された憲兵隊の6名がいた。
大阪体育大学の学生は、柔道部、レスリング部、
ウエイト・リフティング部、バレー部の4名。
全員田舎出身で、幼馴染のバレー部の坂本昭くんだけが、
当時人気のスパイダーズの井上純ばりの2枚目。
あとは筋肉だけは発達した田吾作だった。
さぁ、どうしてこのお嬢様、コンパニオンと仲良くなるかだ?
2枚目の坂本昭くんは、すぐにそのうちの一人をゲット。
彼の周りはいつも女性でいっぱいだ、不思議なことではない。
私が憧れたのは、1歳年上の、身長165センチ、
同志社女子大学の英文科に通う、
顔が小さくて八等身の渡辺千波さん。
毎日会話はするが、それ以上にはならない。
こちらはバイトとはいえ、ただの掃除夫だ。
エリート学生は通訳などしている奴もいる。
半年経った秋の終わりの京都、平安神宮のイチョウ並木の下で、
イタリア人の憲兵にもたれて歩く千波を見た。
動悸が激しく波を打った。
彼の名はカルロス、ローマ出身だった。
ローマは許さない。
あれ以来、ローマは永遠の敵となった。
実はこの時、もうひとつ人生観を変える事件が起こった。
万博も終わりに近づいたある日、レスリング部の某君が告白した。
13名のコンパニオンにうち7名と関係を持ったと言った。
信じられない。
顔も体も鼻も曲がっている、身長も158センチしかない。
耳も潰れているぞ。
彼は勝利者らしく、静かに笑って、口を開いた。
「彼女達の心はいつも変化している。
彼とケンカして別れて、寂しい夜もあるかもしれない。
美人だって彼がいない時もある。
友人との人間関係、仕事のむしゃくしゃ。
気晴らしに遊ぶのは、俺のようなアホな男がベストさ。
俺は、彼女達の心の隙を逃さない」
「どんな言葉掛けたのだ?」
「簡単さ、修飾語はいらない。Y X X X?
4文字それだけだ。
いつも同じ言葉を繰り返す。
絶対にしつこくしない。
バカにされても、振られても気にしない。
毎日同じ事繰り返し言う。」
「なに?Y X X X?」
「嘘だろう、お前はバカか?」
「オー・マイ・ゴッド、信じられない(当時はこの英語は知らない)」
「オー、ロミオとジュリエットの世界はどこにある」
お釈迦様は、人の心は一日9億3千万回変化するという。
この体験は、その後の私の営業訓となり、
顔のねじれも、垂れ目も気にならない。
彼にはいまだ感謝している。
これ以来、大人になった。
ローマが敵であったことも忘れて、数々の遺跡をまわる。
円形闘技場・コロッセオ。
イタリア統一のシンボル、エマヌエーレ2世記念堂。
バチカン市国の世界最大のキリスト教寺院・サン・ピエトロ大聖堂。
博物館やスペイン広場などを見学。
この荘厳な巨大な建物、絵画を見た天正遣欧少年使節(1582年)や
支倉常長(1615年)は、何を考え?どんなことを思ったのか?
歴史はロマンで一杯だ。
支倉常長はローマ教王、パウルス5世に謁見して貴族にもなった。
団体と別れて2泊延長し、
出来る限りのローマ市内のスーパー見学もした。
都心には小型店のグローサリー・ショップだけ。
ようするにLimited Assortment Store。
アルディーとイギリスから西海岸にやって来たFresh & Expressの世界だ。
食事が美味しいと聞いていたので、スーパーの惣菜を期待して来たが、
イタリアにはホールフーズはなかった。
ベネチアでは、ホテルが郊外だったので、
近くのスーパーセンター、オーシャン(フランス系)を見学。
これもロシアで見たものと変わらない。
つくづくアメリカのスーパーは、多様で、進化していることを実感した。
憧れのカンツォーネの歌は、オプションで
オペラ・アリアとカンツォーネに参加したが、
会場はせまく、観客と歌手のコラボレーションもなく、失望した。
ホテルはムッソリーニが建築したテルミニ駅の近くだった。
ここから数ブロック離れたところに、
イタリア人と結婚し、大変立派なレストランを経営している、
イタリアの日本人、肝っ玉お母さん、ともこさんの店がある。
彼女の店で夕食をとる。
イカ墨パスタが美味しく、3度も通った。
彼女の苦労話は明るく楽しかった。
彼女は65歳。
築地の寺の娘で、
幼稚園の先生をしていた時、30回もお見合いをした。
彼女の並みはずれたエネルギーに、
いずれの男たちも尻に敷かれると、恐れをなした。
彼女は生まれつきのリーダー。
いつも並みはずれた日本女性は、外国にはみ出される。
結局、イタリアに来て38年、
ご主人は亡くなったが、息子が手伝っていた。
ペンションも2軒経営をしているらしい。
食事つきで価格はリーズナブル、次回は長期でローマに来れそうだ。
時が経つのも忘れて、毎晩12時過ぎまで話し込んだ。
(左端がともこさん)
異国で暮らす日本人の話題はいつも同じだ。
強烈な祖国愛である。
ローマの青い月の光の下で、祖国への愛を語ろうとは思わなかった。
夢見ていたのは、金髪でコンパクトなグラマーのイタリア娘と、
恋の語らいと抱擁のはずだった。
どこかで道を間違えた。
映画のようにはいかない。
「イタリア娘の、熱き血潮触れてみて、裏切る祖国かな」
(愛の賛歌の1小節より?)
浅野秀二
8月18日