【後編】 盛和塾最優秀経営者賞に輝いた松井紀潔氏の経営哲学
◇経営体験発表/最優秀賞
カリフォルニアに「利他の心」を【後編】
◎値決めに生きた塾長の「実学」
今から10年前、アメリカには日本やオランダのような蘭の周年栽培はありませんでした。新しい種類と栽培技術を導入し、大規模栽培によって家庭の主婦が手を出せる価格で量販店のルートに乗せれば、アメリカでは巨大な蘭の市場を開拓できると私は考えました。アメリカの家庭の主婦に「台所に蘭を飾る習慣をつけてやるぞ!」と決心したのです。
しかしアメリカの一般家庭とひと口に言っても、もちろん貧富の差が大きいのです。そこで私は、蘭を大・中・小と三つのサイズの鉢で栽培するとともに、多種類の蘭を栽培して商品の幅を大きくし、誰にでも買える蘭を提供できる方法を編みだしました。特に9センチの小鉢で栽培する低価格商品の「ミニ蘭」は、この不景気に乗って今世界的にヒットしています。
そして、まったく新しい蘭という商品を売り出すのですから、値決めには悩みました。幸いにもこの頃塾長が出版された『稲盛和夫の実学』から「お客さんが納得し、喜んで買ってくれる最大の値段」を学び、値決めの基本にさせていただきました。これはコスト(原価)+30%ぐらいのものでした。
蘭という作物は、苗から商品にするまでに平均、2年はかかりますが、わが社の利益率は上がってきています。最近の純益率は、2005年度は売上の23%、2006年は24%、2007年は売上が2600万ドルで、利益はその25%の670万ドルを記録しました。
しかし2007年の年明けから、住宅価格は年率15%以上もの高騰がはじまりました。私は「バブルがはじければ蘭は売れない」と読んで、増産計画をすべてストップしました。商品構成を見直し、蘭も小型サイズを増やし、大型で値の張るものの生産を縮小したのです。小売価格も平均20ドルから10ドル前後に移しました。2008年度の売上は前年に比べ三割減を予想しましたが、私の経営転換がある程度は効果を上げ、16%の下落に留まりました。また赤字の予想が、利益率も7.7%だけは確保することができました。
今年の5月から、今度の世界不況も薄日が見えはじめましたので、蘭の第三次増産計画を再開しました。この後の計画は、古い温室の改築を進め、3年後には年間の生産量を一気に550万鉢まで拡大して、年間売上を4000万ドル、そして純益を800万ドル以上にまで伸ばす計画です。このために今、ニューヨークの南に蘭の開花用の温室を建てています。ここに半製品を送り込んで蘭を開花させ、積極的に東海岸の市場を開拓していくのです。「ピンチこそチャンス」という、塾長から教わったことの実践です。
またアメリカだけでなく国際的な蘭栽培を考え、「二十一世紀を蘭の世紀に」をスローガンに、2007年の春に台湾で「国際蘭栽培者協会」を結成しました。私がその初代会長に選ばれ、「利他の心」で世界の蘭栽培の発展のために、時間と資金を注ぎ込んでいる最中です。
現在、会社の規模は総土地面積216ヘクタールですが、その三分の二は「ダム式経営」のダムの役目をしており、野菜農家に貸しながら住宅開発を待っています。温室の総面積は約30ヘクタールで東京ドームの約6倍。栽培面積だけは蘭栽培では世界一の規模で、生産量はカリフォルニア州の蘭の約半分、アメリカ国内の20%を生産しています。従業員数は190人で、会社の資本金は114万ドル、株主は私だけで、長らく無借金経営です。
◎一生かけて稼いだお金を地域のために
15年前、私の死後に揉め事がないように遺書を書きました。
私には4人の子供がいますが、30年前に長女がハーバード大学に入りました。それで私は後の3人の子供をつかまえて「ハーバードに行けない者が花づくりの跡継ぎだ」と宣言したのです。それに恐れをなして子供たちは全員がハーバードを卒業しました。
跡取りに仕事を継がせても、良いところ30年です。それで自分で自分の跡を継いだのです。私は子供にはそれぞれ自分の好きなことをさせたのですから、「子供孝行」ができたと鼻高々です。
私は稲盛塾長が莫大な私財を投じて稲盛財団をつくられたことを知っていました。子供が大学を卒業した後、私は大学教育がいかに経済効率の高いものであるかに驚きました。アメリカの子供の将来は大学教育で決まることが判ったのです。
私たちの住むモントレー郡は人口50万近くで、ラテン系が半分をしめ、ギャングですっかり有名になりました。これを改善できるのは、新たな産業の開発とその基となれる人材の養成です。特に大学教育の普及が第一条件です。
私は塾長のような大金はもっていませんが、遺書に「私の死後、残った物はすべてこの地域の貧しい子供たちの大学教育に使う」と書いて公表しました。塾長からいつも教わっている「利他の心」をわずかでも実践してみようと思いたったからです。5年前に「松井財団」をつくり、毎年自社の利益の10%を寄付して大学奨学資金制度をはじめました。毎年各人に1万ドルずつ4年、総額4万ドルを与えるもので、家庭の援助がなくても、少しアルバイトをすれば公立大学を卒業できます。
一人の奨学生からはじめ、今年は18名になりました。6年間で合計60名、総額224万ドルを寄付しました。奨学資金の将来の主な財源は、手持ちの180ヘクタールの土地と私の農場などで、総額一億ドルぐらいにはなるでしょうか、少なくても2500人以上の貧しい若者を、これから25年間、この田舎から大学に送ることができます。
私が地域社会に捧げていくのはたいした額のお金ではありません。でもこれは私が一生で稼いだお金のすべてで、この全額を地域社会に捧げていくところに意義があると思います。
私は子供や孫たちに、1ドルの遺産も残しません。私が彼らに残したいのは、誰でも人助けができる立場に立ったときには、恵まれない人々のために尽くすことが人間にとっていかに大切なことかという、塾長から学んだ「利他」の考えです。これを私の「遺産」として、子供や孫たちに残していくつもりです。
昨年、シリコンバレー塾の開講式にお越しになった塾長が、私の蘭の栽培場を訪ねてくださいました。温室の中央から蘭を見ておられた塾長が「通路を入っても良いか」と聞かれるのです。「もちろんです」と答えると、塾長はお一人でどんどん奥まで進まれ、「手にとって見てみたい」と花にご自分の手を添えられるのです。
この瞬間、私の脳天に稲妻が走りました。「経営の隅々まで見まわる努力を惜しんでは本当の経営者にはなれない」。このとき、私は肝に銘じたのです。
私はまだ74歳です。私は100歳まで現役でがんばります。そして塾生のわれわれこそ、稲盛塾長の教えを、広く、深く、長く後世に伝えてゆく証人とならなければならないと思うのです。
稲盛塾長には心からお礼を申し上げるとともに、今後とも末永くご指導をお願い申し上げます。