「倉本長治 商訓五十抄」の「無くてならぬ人間」
2024年も師走に入った。
穏やかな日曜日。
買物の好きな女に師走来る
〈星野立子(たつこ)〉
1903年(明治36年)生まれ、1984年没。
高濱虚子の次女。
中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに、
「四T」と尊称された。
その父親の高濱虚子の句。
女を見連れの男を見て師走
師走です。
師が走る。
私には多くの師がいる。
お陰様で。
仕事の面でその第一に来るのが、
倉本長治師。
ほかにも渥美俊一先生、
壽里茂先生、
上野光平先生、
杉山昭次郎先生。
伊藤雅俊さん、岡田卓也さん、
北野祐次さん、清水信次さん、安土敏さん、
大髙善二郎さん、夏原平和さん、川野幸夫さん、
数えだしたら次々に名前が浮かぶ。
けれど一番先に来るのが、
わざわざ名前に「師」をつける長治先生。
その二冊目の「倉本長治 商訓五十抄」
「損得より先に善悪を考えよう」
「無くてならぬ人間になれ、
居なくても判かる仕事をせよ」
というのは、若い時からの私の
座右のスローガンである。
この言葉は、自分で作った幾つかの
格言めいたもののうち、最も好きな言葉である。
この「人間」というところを、
貴下は「店主」と置きかえてみたなら、いい。
「居なくても判かる」というところの意味が、
不分明というよりは二様の解釈を持つところに
この言葉の欠点があるようだ。
その「判かる」というのが、
現場に居(お)らない自分に、
進行の状態などがチャンと推測出来る
という風にも取れるし、
或いは、自分が旅行不在、又は病気欠勤、
乃至は退職した時でさえも、
自分のやって来た仕事は、
他の人にも直ちに一切が了解されるように、
整然、明瞭、一糸乱れぬものであり、
あらゆる統計と記録が
保存されているのでなくてはなるまい
――との二つの考え方にとれるのは、
正に言葉の欠点ではあるが、
その欠点があるところに、
又とない含みがあり、
私には、そこのところが
無上に好ましいのである。
「人間」というところを、
「社長」と置き換えてもいい、
「店長」でもいい。
「部長」「チーフ」でもいい。
無くてならぬ店長になれ。
自分がその場にいなくても、
わかるような仕事にせよ。
あるいは自分がいなくなっても、
みんなにわかるような仕事にせよ。
この「五十抄」の奥付を見る。
2004年2月17日第1刷発行。
発行所/株式会社商業界
発行人/結城義晴
私が代表取締役社長で、
発行人でもあった。
その発行人であることに責任と誇りを感じる。
そして襟を正す。
ただし、無くてならぬ社長だったか。
自分がいなくなっても、
みんなにわかるような仕事をしたか。
ん~。
残念でならないけれど、
師走の今日、この言葉は胸に沁みる。
吉井莫生(ばくせい)の句。
毎日新聞の記者だった。
師走記者筆の疎略を慎まん
この師走、無くてはならぬ者とならねば。
〈結城義晴〉
2 件のコメント
「二つの考え方にとれるのは、正に言葉の欠点ではあるが、その欠点があるところに、又とない含みがあり、私には、そこのところが無上に好ましいのである。」
こちらは、名文の特徴であり、受け止める者にも考え続けることを強いる所にその真骨頂があると思います。
対して、ポピュリズムの言葉は、複雑な状況を極度に単純化し矮小化するもので、受け止める側を思考停止にします。
考えさせられることと、瞬時のわかりやすさと、いずれに無上の好ましさを覚えるか、ここに一つの分岐点があるように思います。
思考停止に陥れるものこそ、
全人類の敵でしょう。
長いながい時間をかけて築いてきた、
欧米と東洋の哲学を否定するものです。